イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

補足的考察

 
 「哲学者は、国よりもまずは天のことを考えるべきではないだろうか。」
 

 そもそもは国について考えてみるということで考察を始めたにもかかわらず、気がつくとだいぶ逸れてしまっていたので、今回は上の論点について考えておくことにします。
 

 どの国に生まれたとしても、天は一つです。どこに住んでいようと、人間はすべからく、天命なるものを果たすように求められているのではないだろうか。
 

 ただし、天命というものはおそらく、人間が思っているよりもずっと慎ましいものなのかもしれません。
 

 わからない。たまたまそういう時代に生まれたから、そう思ってるだけなのかもしれない。おそらく、中には慎ましいどころか、とてつもなく大きな使命を背負って生まれたという人も、いるのではあろう。
 

 だが、少なくとも僕自身に関する限りは、その天命(と思われるもの)なるものの見た目は地味なものであるし、大半の人についてもまた、同じことがいえそうである。ただし、地味だからと言って天命なんて存在しないとは、ならないのではないか。
 

 天命ではあるが地味。地味ではあるが天命。そういうことも、ありうるのではないだろうか。天が自分にそれをなすことを望んだのだとすれば、納得できるような気がしないでもない……。
 
 
 
哲学者 天命 マルティン・ハイデッガー ヒッグス粒子 iPS細胞 ロマンティシズム サムライ
 
 
 
 現代において天なるものの概念に真剣に向き合ったのはマルティン・ハイデッガーですが、筆者には、ヒッグス粒子とiPS細胞の時代にあっても、やはりこの天なるものには何かがあるのではないかと思わずにはいられません。天ははたしてこの時代に、人間に何を求めているのであろうか。
 

 ……どうも俺には、天はこの時代、人間に、おのれの魂の問題に立ち返るように求めているように思えてならんのである。そして、余談にはなるが、なぜか天なるものについて語る時には、僕ではなく俺という言葉がふさわしいように思えてならぬ。天なき時代に天命を求めるところにとてつもないロマンティシズムを感じてしまうのは、はたして俺だけなのであろうか……。
 

 まとまりのない記事になってしまいましたが、書き直している暇もなさそう(目の調子が微妙)なのでこのままにしておく他なさそうです。なお、現実の筆者は天命を求める一人のサムライであるというよりは、むしろ天命で岩波入りしちゃったらどうしようと盛り上がっている根暗な人間の一人であることを、最後に付け加えておくことにします。