イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

間違えることのないもの

 
 哲学とは、おそらく何らかの主題を(過剰かつ執拗に)掘り下げることに他ならないので、もう少し天命なるものについて掘り下げてみることにします。
 

 1. 学習塾で先生をしています。
 2. 天から教師たることを命じられています。
 

 電波系その他の神経錯乱と取り違えられる危険を鑑みると、自己紹介としては1の方が無難であることは間違いありません(「聖ナル狂気ヲ押シ隠スコトハ、愛ノワザニ属スル」)。しかし、自分でこっそり口にしてみてテンションが上がるのは、やはりどう見ても2の方ではないだろうか。
 

 さて、天命なるものがもし存在するとすれば、その凄まじいところとは、天命には絶対に間違うことがないという点です。たとえば、学習塾の教師たれという天命が、仮に実際にある人に下ったとしてみましょう。
 

 「自分自身の意志、周囲の意見は、究極のところは関係ない。ただ、学習塾の教師の務めを果たしなさい。」
 

 じゃあ、何も考えずに、本当にただ学習塾で働きさえすればいいということですか。「その通りです。ただ、学習塾で働きなさい。現在の時点であなたに下っている天命は、厳密に言って、それ以上でもそれ以下でもない……。」
 
 
 
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 もちろん、天はともかく人間は必ず間違いを起こすので、人間が天命について思い違いをするということは多分に起こりえます。従って、「たぶんこれが今の天命なのではないか」くらいは、よく考えた上でのことならば少しくらいは思ってもよさそうですが、「絶対にこれこそが天命である」と信じきっているとしたら、まずは自分が思い違いをしている可能性について検討しておいたほうがよさそうです。
 

 しかし、たとえそうであるにしても、天命というイデーのうちには無限のロマンがある。俺は間違えるとしても、天は間違えないのだ。それならば、今からは俺は俺を頼るまい。ただ夜空に輝く星々をいただく、あの巨大な天空を拠りどころとするのみ……。
 

 このように考えてみると、「俺こそ天から選ばれし者である」というNGワードに逸れてしまわない限り、天命が存在するという考え方は、それほど人間にとって悪いものではないのではないかという気もします。筆者には、天命なるものは、権力、富、TWICEその他のこの世の諸ファクターにもまして優先すべきものであるように思われます(ただし、このことはTWICEが一定の重要性を持つことを妨げるものではない)。