イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

天命に関する議論の続行

 
 「人間は滅びるが、天は決して滅びない。」
 

 国破れて山河ありとはまさに至言というべきであって、人間がたとえいずれ滅び去るとしても、天と、その下にある〈自然〉とはその永遠の営みを変わらずに続けてゆくものと思われます。
 

 天命とは、人間をはるかに超えるそうした次元に人間が関わる可能性を示すものであるといえます。というよりも、哲学的に見るならば、人間が天に関わるというよりも、むしろ天が人間に働きかけるという、このベクトルの向きこそが重要であるといえるのではないか。
 

 天命なるものがもし存在するとすれば、その時には、天の方から人間に命じるという「出来事 Ereignis」が起こることになる。単に人間がそう信じるというのではなく、点が実際に人間に何事かを望むということが生じるわけです。
 

 もちろん、このような考え方は人間の側の思い違いにすぎないという見方もある。たとえば、ジャック・ラカンならば、そこにまさしく人間と「大文字の他者 Autre」との狂おしき関係における一つのリミットを見てとるでもあろう。しかしである……。
 
 
 
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 突き詰めて言えば、ここには厳密に相互排他的な二つの可能性しか存在しません。
 

 1. 天命は存在する。
 2. 天命は存在しない。
 

 現代では2の方が数の上では優勢であるといえますが、1の支持者もいないわけではありません。天命はあると断言するのも勇気がいりそうですが、天命はないと断言するのも、それはそれで不敬虔でタブーな感じがすることは否めません。
 

 僕はドゥルーズ先生を大変尊敬しているが、先生は「偶然性の世界史のほかに世界史はない」と言っており、僕はそれは違うのではないかと思うのである。あれだけの見識を備えた人と違う意見を持つのは不安ではあるが、やはりここは譲れないのである。しかし、最近まで生きてた大物の先人と違う意見を持つというのは、思った以上に不安を掻き立てるものであるな……。
 

 真理をめぐって火花を飛び散らせる哲学のアゴラにおいては、本来は遠慮は無用のはずですが、やはり尊敬する人々と対峙することは緊張を要します。ともあれ、筆者としては一人の哲学者として1ではなく2の方を支持するものであることを、あらためて確認しておくこととします。