イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

尊敬について

 
 尊敬という行為は現代にはあまり見られなくなってきてるけど(このことには、恐らく深い理由がある)、ツイッターでのbotの存在は数少ない例の一つかもしれない。
 

 botは、過去のすごい人々の発言とか文章をつぶやき続ける。大抵これはすでにこの世を去った人たちが多くて、生きてる哲学者のbotなんてないであろうと思っていた……が!
 

 なんと、マカジマ・モシミチ先生(仮名)のbotがあることをこないだ知ったのである。生きてる人でもbotになるというのはちょっとカルチャーショックだ。マカジマ先生の言葉は日夜、先生本人ならぬbotによって日々ツイッター空間にばらまかれているのである。
 

 まいいや、本題に戻ると、過去の大哲学者たちがbotとしてツイッター空間上にいるというのは、いいことであると思われる。
 

 オーギュスト・コントも言うように、人間の世界は死者たちの存在によって影響を受け続ける必要があるのではないか。カントやドゥルーズは、今もbotとして生き続けているのだ。死者への尊敬は、テクノロジー上の下支えを獲得した。botたちは今日も生ける彫刻のように、先人たちの残した永遠の事業をきらめかせている……。
 
 
 
尊敬 ツイッター bot 哲学者 オーギュスト・コント サムライ バロック彫刻 古典 クリシェ
 
 
 
 となると、サムライたるものは、いずれ拙者もbotとして転生するくらいの気概が必要なのであろうか。その答えはペンディングにしておくにしても、いずれにしろ、人間ってなんだかんだ言ってもやっぱり偉大な先人を尊敬する生き物なんだなーってあらためて思う。
 

 これは生きてる人たちの話だけど、すごいマンガ家とかアーティストとかも、同じように尊敬されてる。確かに、マラキ・ヒロヒコ先生とか人間離れしてる感じがするもんなぁ……。しかし、そのマラキ先生もイタリアのバロック彫刻から学んだりしながらあの独特な身体表現を作り上げたと最近知って、やっぱ古典って大事って思わされたのである。
 

 「あまりに人間的」という例の表現にも聞くべきところがあるのは確かだけど、その一方で、古典の中の人間はやっぱり偉大である。クリシェの氾濫のただ中で輝く、イデア的なものの永遠……。