それにしても、先生という言葉のうちには何か、独特な意味の深みがあるような気がしてならないのである。
夏目漱石の『こころ』に出てくる「先生」は、何の先生かはわからないけど、とにかく先生と呼ばれている。自分にとって大切な先生であればあるほど、何かの先生であるより、先生であることそれ自体が重要になってくるのではなかろうか。
僕の場合、記憶に残っているのはまず、高校までピアノを習っていた川村先生であろうか。もう亡くなってしまったけど、あの先生のことは今でも時々思い出すのである。
川村先生は、僕がむかし住んでた団地で子供たちにピアノを教えていた。厳しいところもあったけど、なにか不思議な魅力のある女性であった。
正直に言って、僕がピアノ音楽の美しさに本格的なかたちで出会ったのは習ってた時よりずっと後になってからだったから、川村先生とはピアノを通してもさることながら、おしゃべりを通して何かを教えてもらった部分も大きい。
特に重要だったのは、高校生になってから恋愛相談に乗ってもらったことである。僕はその頃、ほとんどピアノも弾かずに、先生に身の上相談してもらった。先生は話を聞いてくれる、ほぼ唯一の人であった。
今になってわかる。高校生くらいだと、ていうか多分それ以降になってもだけど、若いうちって誰でも自分のことで本当に忙しい。
これはもういいとか悪いではなくて、人間ってそういう風にできているのではないか。だから、本当の意味で相手の話を受けとめ合うって、若いうちはなかなかできないのではなかろうか(今も別に、そこまで成熟したわけではないが……)。
そうなのだ。僕はちょっと前まで、自分は相手の話を聞いてるのに、なんで相手は僕の話を聞いてくれないんだろう、と思っていたような気がする。でも本当のところは、僕も相手も、お互いにずっと自分のことをしゃべり続けていたのではないか。僕は果たして相手の存在を、ちゃんと受け止めていたのだろうか。
はなはだ自信がない、というか多分かなりの部分、できてないのである。今でも見えてないことはめちゃくちゃありそうだけど、昔は全然見えてなかったってことがわかる程度には成長したと思いたいところだ。ともあれ、川村先生の話に戻るとしよう……。
(つづく)