ピアノの川村先生(彼女が信仰者であることを意識したのは、最近になってからだ)には高校のころ、たくさん話をしてもらった。今から思えば、人とちゃんとじっくり話させてもらったのって、それが初めてだったような気がする。
時間が経つにつれて、あの時はありがたかったなぁいう思いはだんだん強まっていっているのである。ここから、先生なるものについて重要な帰結を引き出せるのではないだろうか。
「先生は、弟子の存在をどっしりと受け止める。」
ここでは生徒という言葉ではなく、あえて弟子という古風な言葉にこだわりたい。弟子という語のうちには、手放してしまうにはあまりにも惜しい、不思議なきらめきがあるのではなかろうか。
おそらく、先生は弟子のことを丸ごと肯定するのではない。弟子には言うまでもなく、至らないところも無限にあるからだ。
しかし、先生は自分に向かってくる弟子のことを、どっしりと受け止める。弟子は先生のもとで、自分はこれからこの人のもとで学んでいってよいのだという平安を得るだろう。
人間はどう生きるべきか、という問いに、真正面から真摯に答えてくれる人がもしいるとすれば、その人こそは先生と呼ぶにふさわしい人ではなかろうか。そういう先生は、どんな宝よりも得がたく貴重な存在であるはず……。
川村先生をはじめ、僕もこれまで、色んな先生に出会ってきた。その中には、今でも尊敬している先生も少なからずいる。
哲学の世界でいえば、タジマ・マサキ先生は身近に接させてもらう機会が何度かあったけど、教えられるところがすごく大きかったのである。
言語について、音楽について、先生の若い日々の学びについて、色んな話を聞いた。それ自体も大きな学びではあったけど、話している中で伝わってくる先生自身の学ぶ者としての姿勢からも、多くを学ばせてもらったのである。
僕が出会った哲学者のうちで、あんなに学び続けることに真剣な先輩はいない。先生がいつか僕に言った言葉は、今でも変わらずにリピートされ続けているのである。「君、常に学び続けなきゃ駄目だよ。一分一秒たりとも無駄にせず、とにかく勉強し続けなさい。」