イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

哲学女子と哲学の未来

 
 前回は取り乱してしまい、申し訳ない。あのあと一晩泣き明かしたから、もう大丈夫だ。哲学女子の二類型の二番目に移ることとしたい。
 

 2. 本物の哲学女子。
 

 僕は彼女たちと接するたびに、ある種の尊敬の入り混じった驚嘆の念に打たれずにはいられない。彼女たちのうちに存在するのは、かわいいなーうふふとはもはや気軽には言わせない、この人ヤバイ、もはや常軌を逸してるんではないかとしか言えないような何かである。
 

 彼女たちには何かもう、この世の流れとかそういうものに逆らいまくってでも哲学してやるという異様な気迫みたいなものが、いろんな言動のうちに透けて見えるのである。損な女たち、と世間では思われることもあるかもしれぬ。だが、僕はあえて言いたい、彼女たちこそ気骨ある女と呼ぶべき人たちであると。
 

 『いきの構造』を書いた九鬼周造先生が彼女たちに出会ったならば、これこそが真の「いき」であると言ったかもしれぬ。タフで強情な人たちだ。だが、惚れるならばやはり、こういう反抗的な魂の持ち主でなくてはならぬ。
 

 もはや、もういいじゃんそこは従っておきなよ妥協って大事だと思うなーボクってところで、断じて否、誰がなんと言おうと、私は絶対に従わないみたいな、偶像崇拝には死んでも屈しない一神教徒みたいなスピリットが、彼女たちのうちには流れているのだ。
 
 
 
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 彼女たちのことを考えていると、他者について語ってる場合ではない、俺は俺で自分のことをしっかりせねばという気にさせられる。この時代、男女を問わず哲学徒たちに求められているのはまさにこのスピリットなのではないかと、俺には思われるのだ。
 

 この国で見ても世界的に見ても、哲学の営みは着実にかつてのプレゼンスを失いつつある。大学ではどんどん肩身が狭くなり、巷ではプラトンやカントの名が聞かれることはもはや完全に絶えつつある感あり。
 

 三年前は僕もこのブログで、人文知を取り戻そうとか書いてた。あれから三年、今はそんな気分にはなれないのである。少なくとも21世紀の間は、人文知と哲学は負けまくるであろう。これはおそらく、個々の人間にはどうしようもない歴史の流れに属することなのではなかろうか。
 

 だがしかしだ、僕はだからと言って、ただ諦める気にもなれぬのである。われわれは負ける。だが負けるなら、せめて最後まで負け抜こうではないか。ものすごいカッコいいこと言おうとか思ってたけどもはや文字数が尽きちゃったから、俺の「絶対時間 Emperor Time」は次回に譲ることとする……。