哲学の未来について、引き続き考えてみたい。哲学の営みは、次の二つの時期をかわるがわる通過するように思われる。
1. 哲学が栄える時期。
2. 哲学が衰える時期。
この二つの時期が存在することについては、どうだろうか。それとも、1の時期しかなくて、常にアゲアゲかつ勝ちまくるのが哲学の運命であるとしたものだろうか。
「……まぁ、普通に考えて、下向きの時期もありますよね、たぶん。」
そうなのだ。そして、そこさえ確認した上でならば、僕が思うに、今が2の時期であることにはあんまり反論は出ないと思うんよ。てか、人文知自体が、もはや閉店前で蛍の光が店内に流れてる状態な感あり。さすがにすぐに消え去りはしないだろうが、すでに書いたように、そのプレゼンスはこれから先もどんどん弱まってゆくであろう(そのうち上向きの時期もまたやって来るかもしれないが、少なくとも当面はなさそうである)。
しかしだ、滅ぶなら滅ぶで、哲学徒はその滅びを最後まで生き抜くのみである。絶滅寸前のニホンオオカミとして、敗北覚悟の戦いに臨む孤高のインディアンとして、われらは滅び去るその日まで哲学することをやめないであろう。渡辺謙さんのようなLAST SAMURAIとして、われらは没落のその瞬間まで闘い続けるであろう。
敗北の美学って、確かにある。昔はそういうのって何だかなぁって思ってたけど、自分自身がいろんな意味でしょっぱい状況に追い込まれてみると、これこそ男の生き様であり、死に様ではないかという気すらしてくるのだ。
先人の言葉にも、ミネルヴァの梟は夕暮れに飛び立つ、とある。散り際に、咲かせてみましょう夢の花。末法以外の何物でもないこの時代において戦うべき場所をどこにも持たなかった、早くもくたびれつつあるこの男が、それでも諦めきれぬ最後の打ち上げ花火、見苦しいのはご愛嬌、夜の江ノ島ででかいのを一発。
サントリー学芸賞もなければ、バズもステマもないこの地の果てで、たまたま流れ着いた奇特な旅人だけを見物客に、この俺に最後のショウをさせてはもらえまいか。そしてよかったら、philo1985という哀れな男がこの世にいたことを、たまにでいい哲学徒諸君、どうか思い出してもらいたいのである。どうってことのないちっぽけな花火だが、諸君の目は最後には理由の分からない涙でいっぱいで、何も見えなくなるぜ……。
[「男のロマンに憧れてるんだろうなって感じしかしなかったけど」との指摘を受けましたが、この際、聞かなかったことにします。]