「……その後の具合はどうですか?」
まだ万全ではないが、まあまあと言ったところだろうか。それより、僕は今回のことであらためて考えさせられたのである。
CTスキャンを撮ってもらった日は、めちゃくちゃ不安であった。でも、考えてみれば、僕なんかより重い病気や不安で苦しんでいる人は、たくさんいるんだろうなあ。
哲学を学び始めたころは、とにかく形而上学に夢中だった。『モナドロジー』とかには大いにのめりこんだし、二年くらい前には、フランシスコ・スアレスの形而上学の精緻さに惚れ込んで、一時はそのことしか頭になかったものである。
でも、ここ数年になってますます、貧困とか病の問題は、哲学者が形而上学と同じくらい(ひょっとしたら、それ以上に)熱をこめて考えるべき大問題なのではないかと思うようになったのである。
こないだ、電車の広告で、世界では6人に1人の子供が学校に行けてないって読んだ。病気で苦しんでいる人となれば、それこそ世界中に無数にいることだろう。他者の苦しみについて、哲学にはいったい何ができるのであろうか……。
これには全然答えが出てないのでなんとも言えないけど、おそらく哲学としては、「この世で最も大切な問題の一つは他者の苦しみの問題である」と主張しておくべきところではないだろうか。
いやしかし、これは実に難しい問題である。かく言う僕にしてからが、またしてもジェームズが痛み出している気がしており、他の人のことより自分の下腹部の健康が気になって仕方ないのである。治ったら治ったでまたそういうこと忘れて浮かれ騒ぎそうな気もするし、まことにエゴイズムの根は深いと言わねばならぬ。
身近なところで隣人愛の実践に励むのも、おそらく大事なのであろう。しかし、それとても、ジェームズの痛みも誰かに親切なことしてたらなんか治るような気がするというエゴイズムから出たものかもしれず、しかし、何にせよやらないよりはやる方がよいようにも思われるが、でもとにかく今はジェームズが心配だおお僕の大切なジェームズよと、気がつけば悩むのは自分(とジェームズ)のことばかり……。
とにかく、非常に中途半端な考察ではあるが、この主題については今後も考え続けてゆくことにしたい。それにしても、この痛みは本当の痛みなのか、それとも、心配しすぎてまだ痛い気がしているだけなのか……。