せっかくだから、お泊まり会の体験が提起している問題について、もう少し考えてみることにしたい。
「現代の人間に欠けているのは、共同性という契機なのではないか。」
たとえば、ご飯を一緒に食べるというのは、食事という行為を〈共〉に向けて開くことである。
一緒に何か食べてる時って、不思議とお互いに心も開かれて、会話もはずむ。いわば、〈共〉がさらなる〈共〉を解放することによって、人間は個への閉鎖から共同的実存へと開かれるとでも言えようか。一緒にご飯を食べたり、銭湯に行ったりすることのうちには、われわれが理性的に考える以上の解放力があるといえそうである。
要するに、突き詰めるならば、もっとみんなで一緒になんかやった方が楽しいよというだけのことでもあるのだが、その辺りのことを「訳のわからない哲学言葉」(ドゥルーズ)で言い表して深い納得に至るというのが、哲学の醍醐味のひとつである。当たり前のことを海よりも深く納得するというのが、人生が哲学に与えている務めなのではないか……。
しかし、これは諸刃の剣でもあることは否めないのではないか。ひとり鍋を食べて、ひとりで好きな音楽を聴く生活は確かに気ままではあるけど、そのぶんなぜか、人生の意味とか価値とかはどんどんわからなくなってゆく(古典的問題としてのニヒリズム)。
いや、わからない。そう思ってる人はひょっとしたら、そんなに多くないのかもしれない。でも、僕はさびしいよ。僕はグルメ鍋じゃなくていいから、誰かと一緒にトン汁をすすりたい。さびしいんだ。誰か、僕と一緒に夕ごはんを食べてくれないか。
一緒にお風呂に入ろうよとまで言い出すとさすがにちょっと病的な気もするけど、誰かと仲良く一緒になんかするって、本当に素敵なことなのではないか。僕は哲学者のはしくれとして、この時代は共同性の契機をもう一度考え直すべきなのではないかと、ぜひ主張したいのである。
ていうか、この点については哲学がうんぬんというより、平均週五日は夕ごはんが孤食という自分の人生が悲しくなってきたのである。まあこんなもんかという気もするけど、しばらくは、誰かとごはんを食べることを夢想しながらひとりでコンビニご飯をぼそぼそ食べる生活であろうか……。