アブラハム問題(『創世記』22章)について、さらに考えておくことにしたい。
これは、ヤバすぎるのである。人間を焼き尽くす捧げものにするという状況自体、もはやタブーすぎて思考停止しそうであるが、この場合にはさらに、その対象が自分の最愛の息子なのである。そして、この命を受けたアブラハムは、それを実行しようとしたのである。
ギリギリのところで御使い(天使)の介入があってイサクの命が救われたとはいえ、アブラハムの中では実際にわが子に手をかけるところまでいったのである。この時のアブラハムの胸中は、今さら僕が言うことでもないけど、まことに推しはかりがたいものがあると言わねばならぬ。
キルケゴールも指摘する通り、倫理的な義務すら踏み越えて問題が立てられたという意味では、アブラハム問題は底の見えない深淵を呼び起こさずにはいないのである。というか、書いてたらなんか自分でも怖くなってきちゃったから、そろそろおとなしく沈黙した方がよいのではないかとさえ思われるくらいである……。
この問題に関してまず確認しておきたいのは、僕自身にはアブラハム的な強さが備わっているなどとは間違っても言えないということである。
ふだん、僕には捨てるものなんてもはやあんまりないとは思ってるけど、アブラハム問題についてちょっと考えただけでビビりまくってるような人間には、持ってるものを全部捨てることは到底できないのである。
ぶっちゃけ、めっちゃ辛いけど、このブログを焼き捨てろ、というか閉じろと言われたら、できないこともないかもしれない(三日三晩泣き続けることは必至であろうが)。しかし、具体的な言及は避けるにしても、僕の大切にしてるあれやらこれやらを焼き尽くす捧げものとして捧げよと言われたら、もはや土下座して泣きながら謝るほかないのである。
かくして、僕のような人間にとっては、自分自身が救いがたいほどに弱いということを肝に命じておくことが必要であろう。
ごめんなさい、でも許してください憐れんでくださいと泣きながら謝りつつ、あとはご慈悲にすがるほかないというのが偽らざる実情であろうか。何はなくともとにかく謝りまくるというのが、率直に言って、弱さを抱えもつ人間が取りうる唯一の選択肢であるように思われる……。