しかし、僕は時々、去年の五月ごろにT牧師から言われた言葉を思い出すのである。その時、T牧師は僕にこう言った。
「philoくん。君自身が背負う十字架は何なの?」
もう詳しい状況は忘れちゃったけど、その時の僕は完全に行き詰まっていたのである。五年前くらいからぐらつき、二年半くらい前からはわりとぐちゃぐちゃだったけど、去年の五月くらいにいったん全部破綻したのであった。
その頃、僕は神学校に行こうとしていた。自分の人生をそこに賭けて、行き詰まったものを何とか切り開こうとしていた。しかし今から思うと、あの時の僕にはいったん全部ポシャることが必要だったような気もするのである。
僕は確か、T先生にすべてをぶちまけたのだった。T先生、僕はもうダメです。キリストについていって人生をやり直そうとしたけど、僕にはできませんでした。僕はもうダメなんです。終わりなんです。
今からすれば、なんであの時自分がそんなに追い詰まってたのかはよくわからない。でも多分、その時の僕は、結局自分が何にもなれないってことに耐えられなかったのだろう。
ぶっちゃけ、神学校に行こうと思ったのも、そこでなら自分は何ものかになれると思ったからという部分がないとはいえない。人のために何かしようと思ってなくはなかったけど、その時はとにかく、何とかして自分の人生をちゃんとしたものにしたいというのがあったことは否めないのである。
でもある意味、その時にちゃんと全部ぶっ壊れておいてよかったのである。
勉強だけはできたから、かつての僕は、心のどこかで自分は何ものかになれて当然だと思ってたのである。でも実際には、何もできないダメっ子ちゃんであることが示されただけだったのである。そしてくり返しになるけど、それは僕にとってよいことだったのだ。
自分が何にもなれないことを認めるって、最初は辛いけど、砕け散ってゆく中でなんかいい気持ちにもなるのである。ああ、何にもなれなかったな、悲しいな。でも、なぜか不思議と心地いい。いずれにせよ、砕け散ったあとって、誰かと心の底から仲良くすることのほかには何にも残らないのである。