イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

昨年の五月を振り返る

 
 去年の五月ごろ、人生的にかなり行き詰まっていたあたりのある日に、僕は荒川のあたりをさまよっていたのである。
 

 まだ一年前だというのが不思議な気もするけど、その時はもう何をしたらいいかもわからず、もう死ぬみたいな感じでふらふら歩き続けていたのである。そして、土手の高くなったあたりを延々と歩きつづけてた時、声が聞こえてきたような気がしたのだ。
 

 「あなたを、人間をとる漁師にしよう。」
 

 これは聖書の中で、キリストがペテロに言った言葉である。しかしその時は、自分でそれを思い出したというよりも、どこからか声が聞こえてきたような感覚に襲われたのだ。
 

 それが神さまから直接聞こえてきたものだという確信は、僕にはない。でも、神が人間に語りかけるということがあるとしたらおそらくああいう感じなんだろうなという気はするのである。
 

 その後、実際には人間をとる漁師になったというような出来事はまだ起こってないけど、あれは自分の人生の流れを決定する上で大事なポイントだったのではないか。少なくとも、これから先の人生で、キリストについてゆくとはどのようなことかを学んでゆくのは確かなのではないかと思うのである。
 
 
 
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 いやこれ、思えば本当にわけのわからないところに来てしまったという気は正直する。
 

 先進国の中でキリストを信じる人って、たぶんシャレにならないくらいの勢いでどんどん減ってってる。教会の中の人たちがそんなに話さないのが不思議なくらいだけど、このままいくと、そう遠くない未来にこの国の教会はほとんど滅ぶのに近いようなことになるんじゃないのかという気さえしてくるのである。
 

 哲学者としてキリストに賭けるというのも、不安にならない日はない。昔もそうだったのかもしれないけど、今の時代、神について語ろうという哲学者はほぼゼロに近い。錯乱して意味不明なことをやってるだけなのではないかという恐れは、ここ数年、常につきまとい続けているのである。
 

 でも、僕の人生は神さまによって救われたという実感は、確かにある。この辺り、真剣に考え出すといつまでも悩みは終わらないなんてことになりかねない気もするけど、もはや何も考えずに、自分に与えられたものを全うするために走りまくるしかないのかもしれない。