イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

「罪から来る報酬は……。」

 
 先日、このブログを読んでくださっている女性の方から「チョコ次郎買いました!」と声をかけていただいたのである!サク山チョコ次郎のファンの輪は、少しずつではあるが着実に広がっている……!それはさておき
 

 罪なるものについては、とりあえず、次のような二つのスタンスが考えられる。
 

1. 「いやー。確かに罪って、誰でもそういうのはなくはないと思うんですけど、まあでもそれって逆を言えば誰にでもあるのではないでしょうか?人間、あんまり深く考えすぎずに、ほどほどくらいが丁度いいんじゃないかと思うのですが……。」(コモン・センスの立場)
2. 「罪から来る報酬は死です。」 (聖書の立場)
 

 たぶんこの点については、1に近い立場をとる人の方が圧倒的に多いのではないかと思う。かく言う僕自身、聖書に出会っていなかったとしたら、罪なるものについてはほとんど考えることすらなかったであろう。
 

 これは聖書の言葉の特徴ではないかと思うのだが、聖書の言ってることって、人間の目から見るといつでも相当に極端なものに見えるのである。たとえば、キリストは「天の父のように完全なものになりなさい」と言っている。いや、それはさすがに無理あるんじゃないですか主よと、信仰者ですらつい言いたくなってしまう。でも、こうしたことのすべてについて、聖書の言葉は、人間の側の思惑には一切妥協してくれないのである。
 
 
 
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 しかし、神さまなるもののご性質について考えてみるとき、こうしたことには、仮に納得するとはゆかないまでも、ひょっとしたらそういうものかもしれないとは思わされるのではないだろうか。
 

 神さまが存在するとすれば、神さまはわれわれの想像力の及ぶ範囲をはるかに越えていることだろう(超越の絶対性)。ということは、神さまが人間に言葉をかけることがもしあるとすれば、それはいつでも、相当にぶっ飛んだ言葉であるに違いないのである。おそらくはぶっ飛びすぎていて、何を言っているのかすぐには理解できないようなことも稀ではないのではないか。
 

 あらためて考えてみれば、救世主を死者の中から復活させることによって人類を救うというのも、それが真実であるとすれば、あまりといえばあまりにぶっ飛んだ方法ではある。イエス・キリストの福音なるもののうちには、人間の側の思惑をはるかに越えるものがあることは確かだ。
 

 「罪から来る報酬は死です。」繰り返しになるけど、これは確かに人間の目から見ると、相当にぶっ飛んだ立場であるようにも見える。でも、一度は人生の道を踏み外しかけた僕のような人間としては、仮に完全に納得とはゆかなくとも、とりあえずは心に留めつつ、思いをめぐらしておくべきかもしれない。