イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

「いつ来るんすか?」

 
 おそらく終末というと、次のような疑問が出てくることは避けられぬであろう。
 

 キリスト者への疑問:
 いや〜終末っすか、いいっすね、いい感じに狂ってますね!僕、そういうの大好きっす。でも2012年のアセンションの時も期待してたのに何も起こらなかったし、空振りは切ないっすよ。で、いつ来るんすか?
 

 テンションを下げてしまうかもしれないとはいえ、真理を曲げることは不可能であるゆえ、ここは次のように答えねばならぬ。
 

 答え:
 キリストがいつ来られるのかは、天の父だけがご存知です。
 

 この件に関しては、すべての権限を握っているのは神のみであると、聖書は語っている。逆を言えば、「〜年に終末が来ます」と語っているキリスト教団体がもしもあるとすれば、それは限りなく100%に近い確率でカルトであると思われる。
 

 が、一つだけ言えるのは、すべてのキリスト者にとって「時は迫りつつある」ということである。主はまもなく来られるのである。マラナ・タ。今日きても明日来ても大丈夫なようにしておくのが、望ましい心構えのあり方といえよう。
 
 
 
キリスト者 終末 テンション 天の父 使徒言行録 いざ鎌倉 わたし待つわ
 
 
 
 ところで、終末いつ来るんすかという疑問は、一番はじめの頃のキリスト者である使徒たちも抱いていたものであった。『使徒言行録』で彼らはイエス・キリストに、こう尋ねている。
 

 「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、ひょっとして今っすか?」 (『使徒言行録』第1章6節、新共同訳より一部改訳)
 

 おそらく使徒たちは、きわめて近いうちにホントに終末がくるのではないかと、大変に緊張していたであろう。ところがキリストは、彼らに対してこう答えたのである。
 

 「父がご自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない。」(同書、第1章7節)
 

 要するに、キリスト者としては、時が迫っているということだけしっかり押さえておけばOKということである。キリストは、これ以上には完璧なタイミングはありえないという時に来てくださるであろう。「わたし待つわ、いつまでも待つわ」という態度が大事である。いや、いつまでもとか言ってる場合ではなく、いざ鎌倉と意気込む東国武士のようなスピリットこそが必要であろう。
 

 しかし、あらためて考えてみると、待つという行為には自分のイニシアティブを捨てて、他者にすべてを委ねるという契機が含まれている。その意味では、忍耐強く待つことができるようになるまでには、ひとは大いなる練達を必要とするものなのかもしれぬ。