バプテスマのヨハネといえばやはり、超有名なあのセリフを取り上げねばなるまい。
「わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない。」(『マタイによる福音書』第3章11節)
キリスト者に必要なのは、この認識なのではなかろうか。
僕は、わたしは、俺は、何物でもない。ゼロなのよ。ダメよダメダメ、ダメっ子ちゃんなのよ。ていうか、ダメっ子ちゃんくらいならばともかく、罪人なのであるよわれわれは!
「……はぁ。」
正しい人は一人もいない。だが、それでもわれわれ人間に、生きるべき真の道を示してくださった方がいるのだ。その方こそ救い主であり、その方こそ道であり、真理であり、命である。
そう、もはや改めて言うまでもないであろう、エッサイの若枝ことイエス・キリストである。われらキリスト者は、この方を指し示す指である。指の役割とは何かね。それは、来るべき方を指し示すという、ただその一点にのみあるのではないかね……!
「……はぁ。」
バプテスマのヨハネこそ、われらに先立つ指の中の指である。「わたしではなく、彼こそが……。」ヨハネのこの言葉のうちに示されているのは、すべてのキリスト者が依って立つべき理想の心構えそのものであろう……!
なんか最近、やたらと暴走しまくってしまっている気もするが、すべてをエポケーして、この場であえて問いたい。最近の『イデアの昼と夜』ははたして、メシアを指し示す一本の人差し指たりえているであろうか。
philo1985よ、お前はお前の主たるキリストではなく、どこかで自分自身を宣べ伝えてはいまいか。お前は自己愛という偶像の中の偶像を、本当にこれを最後とばかりに叩き割ったのであるか。
そのつもり、ではある。俺はもはや、俺のために生きていないつもりである。しかし、どうなのか。俺はやはりどこかで、俺自身がかわいくて仕方ないのではないのか。
ぶっちゃけて言う。僕は、自分がかわいい。ていうか、自分では勝手に、こんなにラブリーチャーミングなヤツってなかなかいないんじゃないかって思ってる。ごめん。でも、嫌いにならないでほしいんだ。もっと僕のこと考えて。
何が言いたいのか全然わからなくなってきたが、もう字数のリミットが来ちゃったことだけは確かである。今回の聖書の言葉に関してはそういう感じってことで、わが消しがたき自己愛の救いがたさについては日々猛省するということにしつつ、とりあえずは先に進むこととしたい……!