イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

深夜三時に考える

 
 今日もなぜか、気がついてみればすでに夜中の三時である。生活リズムが狂ってしまいつつある上に、今さっき、この時間にりくろーおじさんのチーズケーキまで食べるという暴挙まで犯してしまった以上、もはやブログを書かずに寝るわけにはゆかぬ。
 

 深夜三時の問い:
 天に対して果たすべき、このphilo1985の務めとは何か。
 

 もはやこれは、このphilo1985以外には何人たりとも興味を持つことはないであろう問いである。だが俺は、それでもこの問いを問わねばならぬ。深夜のテンション(そして、りくろーの叔父貴の後押し)もあることは否定できぬが、しかしである。
 

 俺は確かにただひたすら俺自身のことを書き続けているように見えるが(というか、見えるというよりも実際書きまくってるとしか言えんが)、しかしそれは、俺的には過去の哲学の歴史との対決の結果なのである。
 

 たとえば、この国の文学はなぜか、私小説という運命に取り憑かれている。というよりも、この国に限らず、本物の哲学や文学にはみな、どこかで自己の探求なる企てに向かわざるをえない必然性があるというのは、周知の事実である。
 

 この点からいえば、俺がこうして俺について延々と書き続けているのも、理由なしとは言えぬ……はずである(多分)。俺ではなく文学が、そして何よりも哲学が、俺をして俺自身について語らしめているのだ。
 

 いや何も、俺自身が本物であるなどと言いたいわけではない。だが、俺はたとえ無理だとしても、やはりその境地を目指さぬわけにはゆかぬのである。これはもはや、俺の俺による俺のための意地のようなものなのであろうか。時刻はすでに三時半である。
 
 
 
りくろーおじさん チーズケーキ ブログ 深夜三時 philo1985 歴史 イデアの昼と夜 哲学
 
 

 わが救いがたき愚かさよ!……しかし、どうだ。この愚かさのかたわらで苦悩のうめき声をあげているのは、ことによればあの哲学そのものなのではないのか。
 

 俺の苦悩は、この俺だけの苦悩であってはならぬ。哲学自身がうめき、哲学自身が叫び狂うのでなければならぬ。問うべき問いなどもはや何も残っていないように見えるこの現代の真夜中のうちで、哲学そのものが彷徨し、懊悩し、葛藤するのだ。
 

 『イデアの昼と夜』など必要ないか、哲学自身が受苦するのか、そのいずれかだ。哲学は死んだか、それとも哲学はここで今まさに煩悶しつつあるのか、そのいずれかだ。
 
 
 哲学は単なる論理の遊びにすぎないのか、哲学という営みそのもののうちに発狂する必然性があるのか、そのいずれかだ。この世での名誉か、それとも例のあの死後の栄光というやつか、そのいずれかだ……!