さて、本題に戻るとしよう。
哲学者への疑問:
自己への配慮、確かに大切な気もします。でも、自分以外の他の人のことはいいのでしょうか?自己への配慮もいいけれど、他者への配慮も大事なのでは?
自己への配慮、確かに大切な気もします。でも、自分以外の他の人のことはいいのでしょうか?自己への配慮もいいけれど、他者への配慮も大事なのでは?
この指摘は、隣人愛の観点からしても大変に重要なものである。しかし、この点については、次のように考えることもできるのではないか。
哲学者の問題提起:
他者への配慮を行うことができるためには、まずもって、自己への配慮を学ぶ必要があるのではないか。
簡単な例を取ろう。はたして人は、毎日欠かさずマクドナルドのダブル・クオーター・パウンダー・チーズに加えて、マックフルーリーのLとポテトのLを食べまくっている人から、食生活についてのアドバイスをもらいたいと思うだろうか?
「……いえ、むしろ、その人の食生活の方こそヤバいんじゃないかと思うと思います。」
その通りである。マックも、たまにならいいであろう。てか、朝マックでソーセージマフィン食いてえな。だが、365日はヤバい。そんなヤバいことをやってる人物からアドバイスをもらうとしたら、下手をすれば、毎日のスープはラーメン二郎からテイクアウトした鍋二郎なんてことになりかねない。超絶メタボライフ一直線である。
まさしく、われわれがアドバイスをもらいたいと思うのは、少なくともそれなりに理想的な食生活を送っていそうな人からであろう。僕のまわりにも、そうしたことを懇切丁寧に教えてくれる篠原涼子さん似のステキな先生(たまには優しく叱ってくれてもいいけど、基本的には思う存分甘やかしてくれることを希望する)がどこかにいないものかと、日々探し求めている次第である。
もう一つ例を取ることにする。僕は哲学者であるからして、何かの疑問を持っている人がいるとすれば、できる限りこちらでも考えてみたいと思ってはいるが、しかしその僕に「どうやったらモテ男になれますか?」と聞いたとしても、言うまでもなく、はかばかしい答えは期待できないであろう。
その理由は明白である。僕だってその答えを知っていれば、今ごろは新進気鋭のカリスマ哲学者として、もっとブイブイ言わしてるであろう。逆に、現実を拒絶して脳内世界でモテモテになる方法とかであれば、おそらくこの国の哲学界でも僕の右に出る者はそうそういないであろうが、自分で言っててあまりにも悲しすぎるなこれ。
本題に戻ると、人間が他の人の役に立てるのって、その人自身が自分でも興味を持ってしっかり把握してる分野においてのことである。となると、他者をもっと最もよく導くことができるのはまさしく、自己を最もよく導くことができる人であるということになるのではなかろうか。
この結論は、哲学者にとっては少なからず恐ろしいものである。なぜなら、よく生きることを目指す哲学者もまた、言ってるだけじゃなくて実際によく生きているのでなければ世に哲学を広めてゆくことも期待できない、ということになるからだ。この辺り、何気に哲学の根幹に深く関わっていることは確かだと思われるので、この点についてはもう少し考え続けてみることにしたい。