イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

「手つきからして危険な男」

 
 ここ数回の話題にも関わるのだが、ブログに載せるっていうんでフーコーの画像を探してたら、すごいのが見つかったんよね。まずは下の写真を見てほしいのである。
 

 
ブログ フーコー 手の動き カリスマ YouTube 言葉と物 人間の死 カリスマ
(画像はウェブサイトより転載)
 
 

 どうですかこれは。手の動きがマジでヤバすぎるの一言に尽きると思うんだが、相当インパクトあるでしょ?
 

 「……確かに、これはちょっとものすごいですね。」
 

 これがカリスマというものではなかろうか。もう宇宙人ですか、みたいな!フーコーって、周りの人の証言によると、やっぱり普段から身振りとか手振りとかがすごかったらしい。確かに、YouTubeとかで動画を見ててもインパクトあるもんなぁ。
 

 いやもうさ、どうせ本を読んだり話を聞いたりするんなら、こういうヤバい雰囲気出してる哲学者の方がいいんんじゃないかと思っちゃうよねえ、やっぱり。んでさ、フーコーとかはわれわれの期待に漏れず、言ってることも当然カッコいいわけですよ。有名な『言葉と物』の最後とかメガやばいよね。鉄板である。
 

 フーコーの名言:
 賭けてもいい、人間は波打ち際の砂の表情のように消滅するであろう、と。(主著のひとつ『言葉と物』の結語)
 

 うおぉ、人間の死、である!もはや内容とかはどうでもいい。いや、哲学者的には内容がどうでもいいとか言ったらもはや終わりな気もしなくはないが、いや、それでも言わせてくれ。このセリフはヤバい。波打ち際の砂の表情のように、はヤバすぎるよ。この本が当時のフランスを沸かせに沸かせまくった(『言葉と物』はハイパー難解な本なのに、飛ぶように売れたらしい)というのもむべなるかな、という感じである。
 
 
 
ブログ フーコー 手の動き カリスマ YouTube 言葉と物 人間の死 カリスマ
 
  
 いやー、もう今回の記事とか、ほとんど「ヤバい」しか言ってなくてボキャブラリーの貧困が激しすぎる気もするけど、これはもはややむなしというものではないか。ていうか、そもそもそれ言っちゃったら、ぶっちゃけそもそもこのブログって普段からほとんど何も言ってないんじゃないかという禁断の疑問すら浮かび上がってきそうだが、そこのところはワトソン君、ひとつスルーということでお願いしたい。
 

 カリスマとは、手の動きでもある。何が言いたいのかというと、哲学って、もちろん中身もめっちゃ大事なんだけど、そもそもこの世に哲学者なる人々が存在するってことを示すのも大切な仕事の一つなんではないかと思うのだ。中身がどうこう以前に、そもそも話を聞いてもらえなかったら終わりなのである。
 

 むろん、カリスマなるものは小手先でどうこうなるようなものではなく、日々の鍛錬の成果がじんわりとにじみ出てゆくことで形作られてゆく類のものであろう。フーコーは一日にして成らず。伝記や証言の語るところでは、とにかくストイックで勉強好きな人だったらしいからなぁ……。
 

 ほんと最近思うけど、哲学って最終的には人間性のいかんが問われてるような気がしてならないのである。僕もこのブログで追い求めているのは、一つには来るべき哲学者のイマーゴに他ならないのだが、この点については、これからもただじっくりと年月をかけて少しずつ突き詰めてゆくほかあるまい。うむ。