いやしかし、僕は思うわけですよ。うっとうしいとは思うかもしれないが、ひとつガマンして聞いてはもらえまいか。
「……はぁ。」
この世にウォシュレットなるものが、まだ存在していないとしてみてほしい。その上で、次のような話を聞かされたとしてみたらどうだろうか。
どうか、一切の偏見を持たずに私の話を聞いてほしい。私はいま、ある一つの機械を作ろうとしている。
その機械はトイレの便座に付けられるべきもので、それとは別に、便座の横にも一つのパネルを付ける。そして、そのパネルのボタンを押すと、便座からノズルが飛び出してくるのである。ノズルはだんだん伸びてゆき、肛門との関係という観点からみて最適な距離にまで到達する。
目標地点への到達後、そのノズルから水しぶきが噴射される。そして、この機械はその水しぶきによって、務めを果たしたのちの肛門を快適に洗浄してくれるのである……と。どうかね。そんなことを見知らぬ男から言われたとしたら、ひとはどう思うだろうか。
「……間違いなく、とてつもなくヤバいやつだと思うでしょうね。」
そうなのだ。もう、完全なるド変態である。が、この世に快適といって、ウォシュレット以上のものがはたして存在するであろうか。
啓蒙的理性を批判するいかなるポストモダニストとて、人類はウォシュレットを生み出すべきではなかったとは言わないであろう。そして僕は思うのだ、哲学という営みの普及と繁栄をひそかに目指すこの『イデアの昼と夜』もまた、かの機械を発明した人間と同じ苦難に出会うことを恐れてはならぬ、と。
ひとつの新しい何かをこの世に出現させるためには、甚大なる努力が必要である。『創造的進化』にまで至るアンリ・ベルグソンの著作が目指していたのはまさに、この努力とは形而上学的な視点からしてどのようなものであるのかという問いに他ならなかった。
聞くところによると、ウォシュレットを生み出した先人は、ちょうどよい場所に水を噴射するという目的のために、多くの人に便座に座ってもらって位置のわかるしるしを付けてもらう方法を考案した上で、実際にデータを採集しまくったのだという。
僕の場合は哲学だから、知人たちにお尻の位置を聞いて回る必要はない。というか、それをしたとすれば、それこそ真のド変態哲学者であろう。ペンと紙さえあれば、いやもう何だったらペンと紙すらも必要ではないという哲学の長所に感謝しつつ、ただ一心に打ち込んで思索の日々を過ごさねばならぬ。
とにかく、必要なのは根気と不屈の精神である。しかし、事の成否は最終的には運命に左右されるところもやはり大きいのであって、自分の心構えだけでうまくゆくとは限らないというのも確かである。話がトイレから始まっただけに、やはり最後はウン(運)が出なければどうにもならぬということで、自力の限界をあらためて認識しつつ今日の考察を結ぶこととしたい。