イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

うじうじしながら考える

 
 何を書こうかと考えていたら、重い課題が心にのしかかってきてしまったのである。今日は、この課題について考えておくことにしたい。
 

 哲学者になるための必須課題:
 哲学徒は、おのれの哲学を形にしてゆかなくてはならない。
 

 これは、まことに気の重い課題である。「自分も哲学をして生きてゆきたい」という人には、これが気が重い課題であるということにはおそらく同意してもらえるのではないかと思う。
 

 自分の仕事が形になってゆくって、まことに恐ろしいことである。というか、たぶん一般的にいって、頭の中で思い描かれたプランよりも、実際に実現されたものの方がしょぼい。しょぼいかもしれないからこそ、自分でも見たくないわけである(ぶっちゃけ、そもそもリアルそのものが恐怖でしかないという問題もあるが、そのことは措いておく)。
 

 いや、これは、本当に恐ろしいことなのである。たとえば僕はここ数年、もう哲学をやる以外に道はないみたいな方向に自分の人生をもっていっている。たぶんこの方向が変更されることは、今後もないであろうと思われる。
 

 でもさ、そういう感じで人生がわりとしょぼく進んでいって、最後までに何かを仕上げたとしてもだよ、それがしょぼくないって保証はないわけであるよ。ていうか、こう考えてるともう何やってもしょぼくなることは避けられないんではないかという気がしてきて恐すぎるのではあるが、これはもう、厳然たる事実以外の何物でもないのである。僕が死ぬ時までには、哲学者としてのphilo1985がどのような人間であったかという問いに対する答えは決せられていることであろう。
 
 
 
 哲学者 しょぼい philo1985 三十三歳 うじうじ 人間
 
 

 ぶっちゃけ僕自身、自分の哲学を作ってゆくという課題から逃げつづてるんではないかという気がしなくもない。
 

 三十三歳って哲学者としては微妙な年齢で、僕も他の無数の先人たちの例に漏れず、だいたいの哲学観は固まりつつあるけど、実際に形にしてゆくのはこれからというところである。そして、改めてそのことを考えると、ものすんごく恐いんよ。
 

 こうやってうじうじしてるだけじゃダメだってことも、わかってはいるつもりなんだ。いやゴメンうそ、多分わかってない。僕は逃げたいよ。本気で何かに挑戦するって、めっちゃ恐いよ。
 

 しかし、人間にはやらなくてはならぬ時があるというのも、また事実ではある。何より、われら人間はみな、いつの日か死ぬのである。philo1985よ。お前は死ぬ前に、この世に何を残すのか。仮に無駄に終わるかもしれないとしても、すべてを賭けて挑戦だけはしてみるべきではないのか。
 

 いやダメだよやっぱできないようじうじ、僕ってほんとにダメなやつだけど、そんな自分が愛おしくてたまらないようじうじとも思うのだが、くり返しになってしまうとはいえ、やはり人間にはやらねばならぬ時があるというのもどこかで考えておくべきなのではないかと思うのである。うじうじ。