イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

「あれだけは、世に出してはならぬ……。」

 
 しかしながら、哲学や文学の世界には死後の逆転という可能性もあるということは、最後に残された希望なのである。
 

 この道を通って消えることのない足跡を残した先人は数知れない。ここではバルーフ・デ・スピノザフランツ・カフカの名前を挙げるにとどめておくが、彼らと同じ運命によって生前の無名がひっくり返されたというケースは歴史上、枚挙にいとまがないのである。
 

 しかし、この希望にもいうまでもなく、ひとつの条件が付いている。それは、この可能性に最後の希望を託すためには、ひとは死ぬ前までに何らかの大傑作を残しておかねばならないということである。
 

 たとえば、スピノザの場合にはあの『エチカ』があったればこそ、死後にはるかな時を経て、哲学界でブイブイ言わすことが可能になったのであった。これが仮に、彼が『エチカ』を書かず、かわりに『スピノザお兄さんの恥ずかしポエム手帳☆〜BEST SELECTION〜』しか残していなかったとすれば、彼ははたして哲学の歴史に名を残すことができていたであろうか。
 

 「……いえ、その場合は、単に恥ずかしいポエムをこっそり書いてた人にとどまるでしょうね。」
 

 その通りだ。かくいう僕自身もこのままでは、中学生の時にこっそり書いてたマンガの作者ということで終わりなのである。哲学の歴史にこのphilo1985の爪痕を残したいというならば、僕もこれからの人生の流れの中で、どでかいやつを何か書きあげねばならぬ……。
 
 
 
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 ていうか、思い出してたらだんだん恥ずかしくてたまらなくなってきたのであるよ。大丈夫だよね、あのマンガは多分もうこの世には残ってないはずであるが、どこかに残ってて、何かのはずみで見つかっちゃったとしたら僕はもう生きていられないようおおぉん!
 

 「……。」
 

 本題に戻ろう。結局、真の哲学者をめざす者は、「君は何を書くのか?」という問いから逃れることはできないのである。当然といえば当然の結論なのではあるが、この帰結を前にしたとき、僕の中でまたしても、うじうじしながら逃げつづけたいという思いが湧き上がってくるのをとどめることができぬ。
 

 やっぱりムリだよできないようじうじ、ていうか、もうすごいこととかにならなくてもいいからこうやってブログでうじうじしてたいなうじうじ。うじうじしてるのって、なんて心地いいんだろう。事によると、うじうじすることの価値を哲学で肯定してゆくという道も、ワンチャンありうるのではなかろうか……。
 

 ……冷静に考えると、このブログもまた『philo1985の恥ずかし日記帳』でしかないのではないかという気もするが、もはや自分自身にも止めることのできないこのエクリチュールの奔流は、こののちも決して流れつづけることをやめぬであろう。まことに、恥の多い人生というほかなさそうである。