イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

「われわれは幸運だった」

 
 誕生サイコロの思考実験、あるいはおとぎ話(詳細は前回の記事を参照)から、いくつかの教訓を引き出してみることにします。
 

 ⑴ もしも、私たちが本当に宇宙形成前のサイコロの一振りで生まれてくることになっていたのだとしたら、私たちはとりあえず、出発点においては運がよかったということになるでしょう。というのも、大抵の人にとっては、この世に存在しているということは原則的に善であると言えそうだからです(そうでない人については、次回の記事で取り扱う)。
 

 たとえば、このブログ『イデアの昼と夜』を書いている筆者自身にとっても、存在しているということは基本的に善です。対人恐怖や社会への不適合、全般的憂鬱や逆流性食道炎などの問題は山積しており、またその解決の見込みもありませんが、やはり何と言っても人間として哲学ができているということには、ただひたすらに感謝というほかありません。
 

 誕生サイコロで偶数の目が出ていたら、ここでこうしてブログを書くこともなかったことでしょう。となると逆に、あのおとぎ話が仮に本当のことであるとすれば、筆者は原初の時に与えられたこの上ない幸運のことをふだんの生活の中で忘却して生きているということになるのかもしれません(後述するが、この忘却は哲学的に見て非常に重要である)。
 

 筆者の設定では「奇数の目が出たら生まれ、偶数の目が出たら生まれてこない」ということにしましたが、これがたとえば「1の目が出たら生まれ、それ以外の目が出たら生まれてこない」ということであれば、その幸運はさらに大きなものになってきます。そして、この思考実験は、偶然性という観点から見たときの私たちの生存についても教えるところが多いといえるのではないか。
 
 
 
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 もしもわたしの誕生が偶然のものであるとすれば、この世に生まれてくることができたことは、これ以上ないというくらいの幸運です。
 

 日々の糧にあずかる、気持ちのいい太陽の光のもとで散歩する、『サイエンスZERO』で最新の科学の知見を学ぶこじるりの姿を目にすることができるといった数々の恵みは、何はともあれ、人間として存在していればこそのものです。その点を鑑みると、悩みの種は尽きないとしても、まずは誰もが生まれてきたことに感謝すべきなのかもしれません。
 

 しかしながら、ふだんの私たちは大抵の場合、そのことを意識しないで生きています。いわば、個々の存在者や出来事(ex. 住民税の支払い、悪天候、電車の遅延)に心が捉われるあまり、それらを可能にする存在そのものに目が向けられなくなっているわけで、哲学的に言うならば、存在者と存在のあいだの存在論的差異に自覚的になり、人間に課せられた存在忘却という運命から脱却すべきところなのかもしれません。
 

 偶然性の問題に存在論的差異の観点からアプローチすることは、ハイデッガー以降の哲学の営みに残された、興味深い応用問題の一つであるといえるのではないか。ともあれ、いずれこの辺りの主題にはふたたび立ち戻ってくることを頭の片隅に入れながら、誕生サイコロについてさらに考察を進めてみることにします。