イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

様相の不可知テーゼ

 
 わたしの誕生に関する偶然性言明(A言明):
 わたしには、生まれてくることも生まれてこないこともありえた。
 

 この言明とは反対のものとしては、次のような言明が考えられます。
 

 わたしの誕生に関する必然性言明(B言明):
 わたしには生まれてこないということはなく、生まれてくることしかありえなかった。
 

 AとBとは、どちらかが妥当すればどちらかが棄却されるという関係にあり、AでもBでもないという可能性は、普通に考えれば論理的にありえません(あえてAもBも妥当しないような現実を考えるというウルトラな立場、あるいは、そもそも様相に関する言明を条件付きでしか認めないという立場もありうるが、目下のところは除外することする)。その上で、筆者が今回主張したい論点は、次のようなものになります。
 

 わたしの誕生に関する、様相の不可知テーゼ:
 わたしの誕生という出来事に関しては、必然性言明(A)も偶然性言明(B)も、絶対的に正しいものとして、その妥当性を証明することは不可能である。
 

 すなわち、それぞれの哲学者には「わたしはAを信じる」とか「わたしはBが正しいと思う」といった発言をすることができるし、論を組み立てる上でそうすることが必要になる場合もあると思われるにしても、「Aが絶対的に正しい」とも「Bが絶対的に正しい」とも言うことは決してできないであろう、ということです。従って、「A(B)であることは当然であるとして、わたしの考えるに……。」という仕方で論を進めることも、本来はできないはずです。
 

 すでに何度か言及したように、現代においては、出来事の偶然性を信じる立場の方が優勢な状態にあります。しかし、だからと言って偶然性を所与の事実であるかのようにみなすことはできないのではないかというのが、筆者が上記の不可知テーゼを通して主張したい内容になります。
 
 
 
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 ある出来事に対して、その出来事には究極的な根拠がなかったと主張することは、おそらくは原理的に言って不可能です。というのも、わたし、あるいは人間一般には知ることができない根拠がその出来事の生起を何らかのしかたで定めていたという可能性は、常に排除することができずにいつまでもとどまり続けるからです。
 

 しかし逆に、ある出来事がわたしにとって、運命のめぐり合わせ(必然)以外の何物でもないとどれほど強く感じられたとしても、それが、偶然のある種の神話化(この点については、以前の記事「偶然は誤解され続けるであろう」を参照)でしかないという可能性もまた、常に残存しています。Aであるように見えても、実はBかもしれず、また、Bのように見えたものも実はAに過ぎないかもしれないという状況の真相は、不可知なままであり続けるほかないと言えそうです。
 

 ある事柄に関して「xかyかを決定することができない」と主張することは、数学の場合と同様に哲学においても、xやyを主張することと同じくらい、場合によってはそれ以上に重要なことなのではないだろうか。この点は、筆者自身の哲学の中核とも密接に関わるところなので、次回以降の記事でもう少し掘り下げておくことにします。