イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

偶然性についての考察のおわりに

 
 最後に、最初の問いにもう一度立ち戻ってみることにします。
 

 「わたしには、生まれてこないということもありえたのだろうか。」
 

 様相の不可知テーゼから言えるのは、人間がこの問いに対して、自分の出した答えこそが絶対的に正しいと主張することは不可能だということです。そして、この不可能性は原理的なものなので、知識を増やしてゆけばいつかは可能になるということも決してありません。
 

 「生まれてこないということもありえたのか、それとも生まれてくるしかなかったのかは、絶対に確実な知として答えが出せるものではない。」
 

 それでは、結局何もわからなかったではないかという意見に対しては、繰り返しになってしまうものの、筆者としては、知ることができないということを知ることは、認識にとっての大きな一歩なのではないかと答えることにしたい。
 

 そして、これもまた繰り返しになってしまいますが、現代の思考は、出来事の偶然性を無批判的に前提してしまう傾向があるのではないかと、筆者は考えています。今回は、その事態を哲学史の観点からも簡潔に眺めてみましたが、本来は、視点をもっと広くとって人類の歴史全体からも考えておくべきところかもしれません(もっとも、哲学史は人類史を映す鏡であるというのも確かである)。
 

 いずれにせよ、ここで改めて浮き彫りになるのは、わたしの、そして人間の圧倒的な寄る辺なさなのではないだろうか。わたしには、自分がたまたま生まれてきたのか、運命によって生まれてきたのかさえもわからない。偶然と必然のあいだで宙づりにされ、「わたしは知っている」と誇ることが許されることは決してない。わたしは、そのような存在としてこの世に生まれ、いずれ死んでゆくだろう。
 
 
 
 様相 不可知 哲学史 人類史 偶然 必然 反出生主義者
 
 

 終わりに、必然性の方についても少しだけ考えておくことにします。もしもわたしが何らかの必然性によって生まれてきたのだとするならば、わたしには生まれてこないということはありえず、このような言い方が正しいとすれば、生まれてくることを定められていたということになるでしょう。
 

 こちらの方の答えも、反出生主義者にとっては相変わらず耐えがたいままのものかもしれません。わたしは、生まれてくるべきではなかった。これが仮に運命であるとするならば、こよりも過酷な運命というものがありうるだろうか。
 

 彼、あるいは彼女の苦しみがどこまでも真正なものであるとするならば、その時には、生まれてきたことを呪うべきかどうかの選択は、ただ彼あるいは彼女自身にのみ委ねられていると言うべきなのかもしれません。筆者としては、あくまでも個人的な見解ではありますが、この問いに答えを与えることができるのはただ神をおいて他にないと信じていることを最後に付け加えておくことにします。
 

 読んでくださって、ありがとうございました!次回からは、また別の問題に取りかかることにします。