イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

ジャン=ジャック・ルソーの場合

 
 前回論じたことと一部重なりますが、「社会なんてもうイヤだ」という叫びについて、もう一つ論点を付け加えておくことにします。
 

 社会の問いに関するもう一つの論点:
ひとが社会について絶望する際には、⑴ 社会が間違っている ⑵ その人自身が間違っているという、二つの可能性が存在する。
 

 ジャン=ジャック・ルソーという人物を例に取ってみましょう。『人間不平等起源論』『社会契約論』といった著作を書き上げたルソーは、社会哲学の大御所中の大御所です。私たちは、この人の書いたものを読む際には、彼が当時の社会、そして、人間が共に生きてゆくという事実そのもののうちに含まれる不正と暴力に対して向けた眼差しの鋭さに驚嘆させられることになります。
 

 ところが、『告白』をはじめとして得られる彼の伝記的事実を知れば知るほどに、私たちには、どうもこのルソーという人物本人のうちにも重大な人格的欠陥があったのではないかという疑念に捉われずにいることが非常に困難になってきます。この人が、人間が生まれながらにして持つ自由を愛してやまない高貴な魂を持っていたことは確かですが、それを補ってあまりある激烈な奔放さを持っていたことも否定できません。
 

 後世に生きる私たちとしては、ルソーのケースからは、次のように結論せざるをえなくなってくるのではないでしょうか。すなわち、市民革命を経験する前の人類の社会は様々な点で大きく間違っていたのであろうし、全人類の自由と平等を完全には達成していない現代のグローバル社会もまた、おそらくは間違いなしというわけにはゆかぬであろう。しかし、そのことを鋭く見通したこのジャン=ジャック・ルソーなる人物自身もまた、過ちの多い私たち人類の同胞の一員であった、と。
 
 
 
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 不義に対する批判的な眼差しと、過ちを受け入れる大らかさの間でどのようにバランスを取ればよいかというのは、非常に難しい問題です。同語反復になってしまうとはいえ、すべてはまさしくバランスの取り方次第であると言えそうですが、では、どこにその理想的な均衡点が存在するのかということになると、判断は当然それぞれの人間ごとに異なってくることでしょう。
 

 社会批判が行き過ぎると、最悪の場合には、ジャコバン的恐怖政治の中で無限にギロチン刑が繰り返されるという悪夢のような世界が到来しますが、社会批判が完全にゼロになった社会というのも、おそらくはそれに勝るとも劣らないウルトラ全体主義の地獄を意味するでしょう。中庸という徳の必要性があらためて実感されるゆえんです。
 

 最後にもう一度ルソーその人に立ち戻るならば、彼自身の人格性の内実が果たしていかなるものであったにせよ、彼の著作から私たちが受け取ることのできるものが非常に大きいことは間違いありません。ジャン=ジャック・ルソーの生涯と作品は、大いなる謎あるいは逆説として、社会とそれを問い質す人間をめぐる深奥の問いを、今も私たちに投げかけ続けているといえます(本記事の結びがこのようであるのは、ひとえに当ブログを文学的に薫り豊かなものたらしめんとした筆者の文筆的努力によるものであって、決して話の落とし所が分からなくなったために止むなく結論をぼかしたというわけではないことを付言しておく)。