イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

存在の論理と人類の歴史

 
 有用性という観点から見た人間と社会との関係:
人間は、「有用たれ!」という呼びかけによって社会に繋ぎとめられている。
 

 人間が社会から受け取っている恩恵は非常に大きなものなので、いわばその返礼として社会の方から一定の有用性=他者の役に立つことを求められるのは、ある意味では当然のことであると言えるかもしれません。
 

 しかし、この有用性の要求が過度に激しいものとなる時には、社会は人間を圧迫するようになります。場合によっては、この圧迫はほとんど人間を押しつぶしにかかってくるものと感じられることもありうるでしょう。
 

 もうね、僕にはムリなの。いや、僕に根性ないだけかもしんない。でも、もうムリ。僕にはこの社会で生き残ってゆくことが、できそうにない……。
 

 上のような呻きを発する人に対しても、有用性の論理から人間を守る別の論理が、社会に備わっていないわけではありません。たとえば、私たちにもよく知られている日本国憲法第25条の条文は、次のように言っています。
 

 日本国憲法第25条(一部):
 すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。
 

 こちらの方の論理は、「有用たれ!」と人間に呼びかけるものではなく、人がただ人として存在しているだけで、その人に価値があると認めます。この論理は有用性の論理に対比して、存在の論理とでも呼べるかもしれません。
 

 有用性の論理がdoingの次元に関わるとするなら、存在の論理はbeingの次元に関わるといえます。人間が生きる社会のうちでは、doing / beingの二つの次元に関わる諸制度が密接に絡み合いながら運用されているといえそうです。
 
 
 
 社会 人間 日本国憲法 国民 健康で文化的な最低限度の生活 有用性 存在 doing being 個人 ベーシックインカム
 
 

 人類の歴史においては、有用性の論理がもたらす圧迫から個人を守るために、存在の論理を実現する制度が発達してきました。上に挙げた日本国憲法第25条や、さまざまな社会保障制度などはその具体例に他なりません。
 

 将来、ベーシックインカムをはじめとするウルトラな社会制度がどこかの時点で成立するならば、その時には有用性の論理からの圧迫はかなりの部分、あるいは、完全に消え去ることもあるかもしれません。しかし、2019年現在の地球においては有用性の要求はまだ極めて強く、テクノロジーの発達にも関わらず、今後も弱まる気配はなさそうに見えます。
 

 今さらだけど、僕は思うんよ。いや、ていうか多分かなり多くの人も同じこと考えたことあると思うんだけど、僕は言いたい。機械とかできたら人間の暮らしってラクになるはずなのに、なんで働く時間とか量とか増えてんの。ほんと素朴な疑問なんだけど、これってやっぱりツッコんじゃいけないとこなのか……?
 

 上のような疑問を持つ人に対しては、実は数百年前から人類総出でツッコミ待ちの状態なので早くツッコむべしと答えるか、あるいは、貴君の疑問を完全に黙殺しつつ、今日も人類は死に物狂いで働き続けるであろうと答えるかのいずれかになるかと思われます。いずれにせよ、存在の論理を機能させる制度が少しずつ整備されてゆく一方で、この現代という時代においても有用性の論理が至るところで猛威をふるっていることは確かです。