イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

アガンベンからトマス・アクィナスへ

 
 引きこもる人間の問い:
 純粋愛なるものは、存在するか?
 

 この問いがいったん危機的なしかたで問われてしまった後には、ひとはもう元の場所に戻ってゆくことはできません。なぜなら、この問いは本来、引きこもる彼あるいは彼女のものであるだけでなく、すべての人間のものでもある問いだからです。
 

 問いの言い換え:
 有用ではない人間は、この世に存在していてはいけないのか?
 

 たとえば、人間は不慮の病気や事故によって、社会にとっての経済的有用性を一瞬で喪失することがありえます。また、年とともに老いてゆき、身体が次第に不自由になってゆくという事実からは、誰も逃れることができません。
 

 何かができる、あるいは、社会にとって有用であるというロジックは、それぞれの人間に対して「あなたには有用性がない=あなたは役に立たない」という宣告を、いつか必ず下すことでしょう。上記の問いは浮世離れしたものであるように見えて、実は人間存在が運命的に向き合わされている問いであるといえます。
 

 通常の場合、人間存在には何らかの力能があり、したがって、何らかの点で人間が有用であることは暗黙の前提とされています。しかし、人間には力能の次元を支える存在の次元もあり、この次元においては有用性の論理は機能しません。
 

 筆者には、力能の次元を可能にしつつ、それ自身は力能を持つことのない存在の次元を人間のうちに見据えることは、あらゆる社会哲学の基礎として必要なことであるように思われます。「力能ゼロ=存在のみ」という極限例は、そのことを最も先鋭な形で私たちに突きつけてくると言えるのではないか(おそらくはこの観点から、スピノザからニーチェに至る力能の力能の哲学の系譜を批判的に検討しなおす必要があろう)。
 
 
 
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 ジョルジョ・アガンベンのような哲学者が提示している「剥き出しの生」のような概念は、ここで議論されているような主題とまさに同じ次元に触れるものであるといえます。その意味では、存在の問題こそが現代の生政治的状況の中で根底的な問題として浮かび上がりつつあると言えるのかもしれません(ウォシャウスキー的な、あるいはトマス・アクィナス的な時代としての現代)。
 

 しかし、ここで一歩進んで考えてみるならば、この存在の問題が純粋愛の問題に直結していることにも注目しないわけにはゆきません。この辺りの事情については、このブログでは以前の『弱いものたちの思想』以来、何度か折に触れて考えてきましたが、この主題が筆者の社会哲学の中核に据えられなければならないという事情が、ようやく筆者自身にも深い必然性として納得されつつあります。
 

 以前はまだ、自分の見解を固定することなくさまざまに考え続けていたいと思っていましたが、どうやら筆者にも、良かれ悪しかれ、自分自身の哲学の土台を一歩一歩築きあげてゆくという時期がやって来つつあるようです。今日の記事の後半には個人的な感慨も入り込んでしまい申し訳ありませんでしたが、次回から、この問題の詰めの部分に入ってゆきたいと思います。