イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

社会契約と心のリミット

 
 「汝は社会を望むか?」という問いに対して、人間はNOと答えることができません。なぜなら、それは生存することそのものを諦めてしまうことを意味するからです。
 

 社会から個人を守るという考え方はとても重要なものですが、そのようにして守られる個人それ自体が、実は個人を守る社会の存在を前提しています(このブログでは、以前に憲法を題材にしつつこの点について考えたことがある)。プラトンの『クリトン』以来、さまざまな哲学者たちが、この根源的な事実について時代を越えて考え続けてきました。
 

 引きこもる人間の苦しみは、「汝は社会を望むか?」という問いに対してNOと答えることはできないにも関わらず、それでもYESと答えることもできないことに由来しています。社会への同意は自由意志によるものでしかありえないけれども、その同じ自由意志によって社会の存在を拒絶することはできない。個人と社会の関係が非対称的なものであることは間違いなさそうですが、どうやら、人間の置かれた状況は、こうした非対称性と切り離すことができないようです。
 

 しかし、繰り返しになってしまいますが、半ば強制されたものであるにせよ、社会への同意は自由意志によってなされる必要があります(cf. ある種の抑鬱状態は、自由の喪失に由来する)。
 

 引きこもる人間に対して他の人々ができることはあくまでも、有用性の論理によって押しつぶされてしまいそうになっているその人に対して、存在の論理を提示し続けることくらいなのかもしれません。すなわち、「たとえ何もできないとしても、それでもわたしはあなたの存在を望む」と伝え続けることですが、引きこもるその人が社会に戻ってゆくまでには、彼あるいは彼女がそう決めるまで、辛抱強く待ち続けることが必要になるでしょう(純粋愛と社会への同意は、領域が重なりつつも異なるオーダーに属する)。
 
 
 
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 人生の重要な帰路において問題となるのは、いつでもこの自由意志です。この点においては、この古典的な概念と手を切ることができないという論点をこれからも折に触れて取り扱うことになるでしょうが、目下の社会をめぐる問いにおいては、この問題は、社会契約論をめぐる問題として現れてきます。
 

 デイヴィッド・ヒュームは、社会契約なるものは現実の行為として歴史上行われたことはかつて一度もなかったとして、社会契約という考え方そのものを批判しました。しかし、人間が「汝は社会を望むか?」という問いに向き合うときに問題になっているのは、近世の哲学者たちが社会契約という名で呼んだものの構造にほかならないと言えるのではないか。
 

 この意味では、引きこもる人間はその苦しみの中で、まさしく自然状態の危機的なフェーズを生きると言えるのかもしれません。たとえば、ルソーは社会契約が行われることの背景として、人間そのものの生存が危うくなったという状況を想定していましたが、引きこもることの実存的危機から共生するという事実の受け入れへという移行は、彼の社会契約論のうちでも反復されている構造であるといえそうです。
 

 社会への同意は現実においてではなく、それぞれの人間の心のリミットにおいて行われる。このように考えるならば、ヒュームの批判を受け入れつつも、社会契約論という考え方の中から意味のあるものを取り出すことができるのではないか。社会契約論は近世哲学の遺産として、今の哲学の現場では半ば忘れ去られているかのような感がありますが、引きこもる人間という現代の形象は、この思想が逆説的なしかたでアクチュアルなものとなる状況を指し示しているといえるのかもしれません。