イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

社会についての考察のおわりに

 
 私たちは前回までで、社会への同意という地点に辿り着きました。いささか急ではありますが、今回の探求は、ここでひと段落ということにしたいと思います。
 

 というのも、この同意がどのようなものであるのかを考え始めると、私たちは「人間は社会の中で生きてゆかなければならないのだろうか」という最初の問いの範囲を越え出てしまうことになるからです。今回は、そもそも社会の中で生きてゆけなくなってしまった人間の問いを取り扱いましたが、これから社会の中で生きてゆく人間の向き合う問いについては、今回の探求とは別の探求が必要となるでしょう。
 

 実存的なものと社会的なものの領域と境界を見定めたこと、実存的なものの最深奥に純粋愛の問題を見出したこと、そして、実存的なものから社会的なものに戻ってゆく際の蝶番の位置に自由意志による社会への同意というモメントを発見したことが、今回の探求の成果になります。個々のトピックについてさらに掘り下げてゆくことが必要なのは間違いなさそうですが、とりあえずのところは、問題の構造についてラフなスケッチを描くことができたことで満足することとします。
 

 引きこもる人間は、社会的なものが及ぶことのない実存的なものの領域の中に踏み込まざるをえなくなることによって、純粋愛の問題に向き合わされます。この純粋愛なるものは、一見すると現実離れしたものであるように見えながら、社会が本当の意味で人間らしいものとなるためには、その存在を信じることが何よりも必要となるものです。筆者がこれから哲学の探求を続けてゆく上でも、さまざまなところで再びこのものの概念に出会うであろうことが予想されます。
 
 
 
  社会 実存的 哲学 マイナー哲学者 神
 
 

 最後に、個人的な事情についても一点付け加えておくことにします。
 

 今から思うと、ここ五、六年くらいの間に筆者が向き合っていたのは、まさに今回の探求で取り扱っていたような問題に他ならなかったような気がしています。現在の筆者は、哲学界への殴り込み(?)をかけ続けるマイナー哲学者としての自分の立ち位置におおむね満足してはいますが、そう思えるようになるまでには、多くの時間がかかったことは事実です。
 

 そこには神との出会いがあったこと、自分がふたたび社会の中で生きてゆくことを引き受けることができるようになる上で、教会の人々に大変お世話になったことについては、ここでは詳しく書くことは控えますが、このことの恵みについてはいくら強調しても十分ということはありません。すべてのことに感謝しつつ、これからも粛々と哲学について書き続けてゆきたいと思います(若者よ、そう遠くないうちに新書の棚で会おう)。
 

 読んでくださって、ありがとうございました!次回からは、しばらくの間、再び文体を戻して筆者の現状について考えてみることにします。