イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

「私は、合鍵の話をしているのですよ」「ええ、私もです」

 
 フィクションは悪なのではないかと主張する立場には、大まかに言って次の二つのものがあると言えそうです。
 
 
 フィクションの存在に疑義を申し立てる二つの立場:
 1. ハードな反フィクション論……およそ、ありとあらゆるフィクションを批判する。
 2. ソフトな反フィクション論……数あるフィクションの中で、一部のフィクションのみを批判する。
 
 
 1は、反フィクションの原理主義ともいうべきもので、この立場によれば『ドラえもん』や『サザエさん』、下手をすれば『とっとこハム太郎』すらも有罪であるということになります。極端な反フィクション論者ともなれば、現実世界に根拠を持たないことを理由に、一切のゆるキャラの完全な廃絶を主張する可能性もないとは言い切れません。
 
 
 これに対して、2の方はそれよりもはるかに穏健なもので、この立場によるならば、フィクションというものは、流通することそれ自体に問題があるわけではないけれども、一部のフィクションは人間に害を及ぼす可能性がないとは言い切れないと主張します。そして、こちらのソフトな反フィクション主義についてならば、実はわれわれの誰もが多かれ少なかれ共感せずにはいないと言えるのではないでしょうか。
 
 
 たとえば、私たちの社会は、いまだ成年と呼べるに達していない青少年たちに対しては、ある種のフィクションの鑑賞を禁じています。それは、その種のフィクションには、何と言いますか、その、彼らにはいまだ不適切と言わざるをえない一連の相互的身体運動のシークエンスが含まれているからです。
 
 
 
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 むろん、健全な男女愛の表現は、青少年たちの心の発育にも悪い影響を及ぼすはずはありません。熱い抱擁か、あるいは場合によっては情熱的な接吻くらいならば、血潮のたぎる愛をまだ知ることのない彼らの頬を赤らめさせることは避けられないであろうとはいえ、やがて来るべき幸福の予感とともに、彼らを未来への健康な期待で満たすことでしょう。
 
 
 しかしながら、大の大人同士がくんずほぐれつの状態で互いの体をまさぐり合ったり、ましてや、情熱のあまりに何ものかを抜いたり挿したりするということにでもなれば、これはもうそのまま見過ごしてはおけない問題です。言うまでもなく、筆者はいま大相撲春場所の取組と家の合鍵の話をしているわけですが、青少年たちには、それぞれの物事にはそれにふさわしい時期があることを教え諭しつつ、その種の描写を含む作品の鑑賞は控えてもらうほかありません。
 
 
 いずれにせよ、作り話ならば何もかもが許容されてよいわけではなかろうというのは、上記の例からも言えるのではないでしょうか。表現の自由と市民の徳性の涵養のあいだでどのようにバランスを取るべきかというのは、非常に難しい問題であると言わざるをえません。
 
 
 抜いたり挿したりという問題には誰もが興味を持たざるをえないことは否定すべくもないとはいえ(もちろん、合鍵の話です)、哲学徒たるわれわれの関心は、あくまでもフィクションなるものの存在の是非に向かっています。真理に向かって粛々と、品位を保ちながら歩んで参りたいと思います。