イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

『源氏物語』から考える

 
 フィクションの存在に疑義を申し立てる二つの立場:
 1. ハードな反フィクション論……およそ、ありとあらゆるフィクションを批判する。
 2. ソフトな反フィクション論……数あるフィクションの中で、一部のフィクションのみを批判する。
 
 
 2の立場の主張をさらに突き詰めてみるならば、おそらく次のようなものになるかと思われます。
 
 
 ソフトな反フィクション論の主張:
 ある種のフィクションは、鑑賞者の悪徳の形成を促してしまうがゆえに批判されるべきである。
 
 
 たとえば、わが国屈指の古典である『源氏物語』においては、主人公の光源氏が、数々の女性たちを相手に恋愛模様を奔放にくり広げます。
 
 
 光源氏は、通りすがりの縁で知り合った、大人びた夕顔の切なげな面影に憧れていたかと思えば、あどけない少女である紫の上の「養育」に熱中し、藤壺との宮廷内不倫でお咎めを受けつつも、左遷先で出会った明石の君とも熱い愛の抱擁を交わすなど、異性方面に関してはまさしくやりたい放題としか言いようのない人生を送ります。
 
 
 年下から年上、オシャレな女性から素朴な女性、手紙を熱烈に送る純愛かと思いきや突如として問答無用の夜這いをかけるなど、彼こそは正真正銘のゲス野郎、いえ、恋多き風雅な平安貴族の典型を体現する「色好み」の人間にほかなりません。朴訥寡黙にして品行方正な筆者からすると、このようなプレイボーイの存在にはただただ戸惑いを覚えるというほかありませんが、この光源氏の生涯を描ききった『源氏物語』は、前述のように、長らくこの国の代表的な古典としてわが国の人々に愛され、親しまれ続けてきました。
 
 
 
光源氏 源氏物語 フィクション 恋愛 夕顔 本居宣長 もののあはれ
 
 
 
 しかし、このような作品を不朽の名作としてしまうことには、本当に何の問題もないのだろうか。むしろ「好きになっちゃったら、もうどうなっても仕方ないんじゃね?」という、ある種の責任放棄を美的に称揚することにも繋がりかねないのではないか……。
 
 
 国学の大成者である本居宣長は、『源氏物語』のうちに「もののあはれ」というイデーの十全な表現を見てとっていました。この「もののあはれ」は、よく言えば、自然と美とが、まるで奇跡のような仕方で重なる芸術的な人生態度の極致とも言えるものですが、悪く言えば、「ごめん、でも、もうやっちゃったもんはしょうがないよ」という開き直った現状肯定の理想化と見ることもできなくはないかもしれません。
 
 
 恐ろしいのは、「なんかすんごい盛り上がってるし、全体的にそういう空気だったから自分も盛り上がってたら、マジで取り返しのつかないことになっちゃった」というパターンは、先の太平洋戦争でも繰り返されたものに他ならないということです。「流れでそうなっちゃったからしょうがないよ」は場合によっては本当に危険なものになりうるということは、私たちが歴史から学び取ることにできる貴重な教えであるといえます。
 
 
 話が少し逸れてしまいましたが、フィクションの受容が悪徳の形成につながる可能性はゼロではないということは、上記の例からも少なからず明らかであると言えるのではないでしょうか。『源氏物語』についてはまだ言うべきことが残されているので、少しだけ回り道をしたのちに、またこの作品のもとに戻ってくることにしたいと思います。