イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

夜神月は死なねばならない

 
 ソフトな反フィクション論の主張:
 ある種のフィクションは、鑑賞者の悪徳の形成を促してしまうがゆえに批判されるべきである。
 
 
 上のような主張に対しては、次のように反論してみることもできそうです。
 
 
 ソフトな反フィクション論への反論:
 通常のフィクションにおいては、因果応報の法則が守られることによって、ある程度まで作品の倫理性が保たれているとは言えるのではないか。
 
 
 たとえば、このブログでも以前に取り上げたことのある漫画『デスノート』を例にとって考えてみることにします(以下、ネタバレ注意)。
 
 
 『デスノート』の主人公である夜神月は、高度な知能を持った極悪の美青年です。最初の頃は正義感も強く、どことなく幼げな雰囲気を残してもいた彼は、物語が進むにつれて、死神からもらったノートに名前を書いて邪魔者を消すことしか考えない殺人マシーンに次第に変貌してゆきます。
 
 
 悪を罰して世界を変革してゆくという信念に取り憑かれた夜神月というキャラクターのうちには、ある種の異様な魅力が宿っています。美青年キャラに夢中な年代のオタク系少女たちであれば、夜神月を正義のヒーローとしてもてはやしてしまう可能性は十分にありそうですし、実際、この主人公の連載当時のキャラクターとしての人気ぶりはすさまじいものがありました。
 
 
 しかし、夜神月のこのような「神格化」に対しては、原作者の大場つぐみ氏によって、超えることのできない限界が設定されています。というのも、夜神月は物語の終わりにおいて、自身の計画に失敗して、この上なく屈辱的な仕方で死ぬことになるからです。
  
 
 悪人を殺すという自分の行為を正当化する演説も冷たい反応で迎えられ、悪あがきと命乞いで惨めな姿をさらしつつも、最後には「死にたくない」と絶叫し続けながら朽ち果てる。このような死にざまを晒してしまったキャラクターに対して自己同一化を行うことは、いかなる中二病の重症患者であっても非常に困難であると言わざるをえないでしょう。
 
 
 
夜神月 デスノート フィクション 大場つぐみ マルキ・ド・サド 善 悪
神世界の神 因果応報
 
 
 
   大場つぐみ氏は連載終了後に、夜神月が惨めな死を迎えるという結末は、連載の当初から決まっていたという趣旨の発言をしています。氏の倫理意識が垣間見えるコメントであるといえますが、夜神月のような人物には最初から屈辱的な死以外の結末はありえないように思えるというのも、読者の偽らざる実感なのではないでしょうか。
 
 
 架空の登場人物と設定を用いてなされるフィクションのナラティブも、人間が抱く倫理的な賞罰の意識を完全に無視したところでは立ち行きません。悪が栄え、善が滅びるという型破りの結末は、それこそマルキ・ド・サドの小説でもなければそうそう見ることはなさそうです。
 
 
 因果応報の原則は、フィクションが悪徳の形成を促すという可能性を、ある程度のところまでは制限しています。デスノートを使って悪人を次々と殺し、犯罪を消し去って「新世界の神になる」という計画は、たとえ作り話の中であろうと、この世においてはその実現を禁じられているということなのかもしれません。