前回までに論じたことを踏まえつつ『源氏物語』に立ち戻ってみる時、私たちは、この作品を以前とは異なった視点から眺め直すように促されます。
『源氏物語』は、光源氏とその恋人たちのきらびやかな恋の物語を描いています。しかし、この作品がその一方で、彼らがその生涯のうちでいかに不幸になってゆくかを冷徹に描き出してもいるという事実を忘れることはできません。
性愛は人間に幻を見せますが、罪のうちで殺しもします。光源氏の正妻である紫の上こそは、光源氏の罪の報いを身代わりになって引き受けることになるスケープゴートであり、彼女は自らの精神的な死をもって、光源氏の見た幻の代価を支払うことになるわけです。
男性の側の美的なエゴイズムの犠牲となって女性たちが窒息させられてゆくという構造は、光源氏の死後を描いた宇治十帖のパートにおいてはますます先鋭なものとなって現れてきます。ここに登場する浮舟という女性は、おそらくは文学が生み出した中でも最も凄惨な欲望の地獄を味わうことになる女性の一人であるといえそうですが、彼女のような登場人物たちを数多く生み出した作者の紫式部に対しては、今さらながらとはいえ、賛嘆と尊敬の念を覚えずにはいられません。
注意しておきたいのは、『源氏物語』は美と罪のどちら側にも偏ることなく、その両方の側面を描き尽くしているという点です。ひとはこの作品を、平安王朝物語の美の精華として享受することもできれば、この美に対する静かな告発として読み解くこともできるというわけです。
このような両義性は、『源氏物語』の「有罪性」に対して判断を下すことを非常に困難なものにしています。
実際、この作品に対しては、男性の側からというよりも、むしろ女性たちの側から憧れの視線が投げかけられ続けてきました。『更級日記』の作者である菅原孝標女などはその典型であるといえますが、『源氏物語』は、ひとに恋することを促す作品であり続けてきたし、また、これからもそうあり続けることでしょう。
しかし、この作品のうちには一貫して、「性愛は人を殺す」というメッセージが流れ続けていることも事実です。
そして、この両義性はおそらく、文学が文学であるかぎり、決して取り除くことができないものなのではないだろうか。本質的な芸術は、美を称えつつも告発することによって、自らが倫理に対して無知ではないことを証ししていますが、罪を容赦なく描きつつも罪へと誘うことによって、ある打ち消しがたい曖昧さのうちにとどまり続けることを運命づけられているように、筆者には思えます。