イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

正義の次元ふたたび

 
 本題に戻りつつ、そろそろソフトな反フィクション論の考察に暫定的な結論を下しておくことにします。
 
 
 暫定的結論:
 フィクションの是非に関する判定を下すにあたっては、倫理的正しさという基準が存在する。
 
 
 明示的にせよ暗黙のうちにせよ、あるフィクションが善悪の問いに対してどのように答えているのかということは、きわめて重要な問題です。それを読んだり観たりすることによって、それに触れるわたしの心は気づかないうちに善い方向にも、悪い方向にも向いうるからです。
 
 
 しかし、問題なのは、それではどのようなフィクションが善悪の基準からみて善いものであり、どのようなフィクションがそうでないのかを判定することは容易ではないという点です。たとえば、すでに見たように、『源氏物語』が恋の美しさとその罪の報いとを描いた文学の傑作であるのか、あるいは人の心を殺す性愛を曖昧にではあれ肯定してしまう問題作であるのかという点について、非の打ちどころのない判定を下すことのできる人は果たして存在するのでしょうか。
 
 
 そのような判定を下すことができるためには、善悪の基準について、また、人間とフィクションの関係のあり方についての完全な知が必要となるでしょう。このような知に到達することが困難であることにはほぼすべての人が同意するのではないかと思われますが、だからと言って、およそあらゆるフィクションの是非について判断を放棄してしまうことにも問題があるというのが、きわめて悩ましいところです。
 
 
 
フィクション 倫理 源氏物語 善悪の彼岸 正義 哲学者
 
 
 
 正義の次元(現代の人間は、正義というこの言葉の響き自体のうちに畏怖あるいは疑念を感じざるをえない)は、人間には決して完全に把握することのできないものとして存在しつづけています。おそらく、この次元においては、人間のどんなささいな行為や言動も決して見逃されることがないでしょう。
 
 
 欧米の人々は、正義について饒舌に語り続けながら、その正義を自らが踏みにじるという過ちを犯しています。私たちの国の人々は、正義という言葉を軽々しく口に出さないという慎ましさは備えていますが、そのかわりに、およそ倫理なるものについて著しく無感覚になるという可能性に常にさらされているように思われます。
 
 
 筆者は哲学者として、人間には倫理と正義について考え、語り続けるという務めが課されているのではないかと考えていますが、たとえこのことが正しいとしても、人間には完全な正義への到達不可能性をも意識しつづける必要があることは間違いないでしょう。この意味からすると、哲学がなすべきは、おのれの正義を不変の真理として掲げることではなく、この世に生きる誰をも容赦することのない正義の次元を、この次元に対する畏れとともに指し示すことであるといえるのではないか。
 
 
 これ以上この論点を掘り下げてゆくと、フィクションの是非という今回の探求の範囲を越え出てしまうので、とりあえず、ソフトな反フィクション論の考察はここまでということにしたいと思います。次回からはハードな反フィクション論の方に移ることとしますが、正義の次元には、そこにおいてもまた後ほど立ち戻ることになるでしょう。