イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

快感原則から存在論へ

 
 私たち自身の実存に関する一考察:
 苦しみの存在は、人間が「この現実」のうちに生きているという根源的な条件を明るみに出す。
 
 
 苦しみにおいて、私たちはしばしば「この現実」そのものから逃れようとしますが、「この現実」なるものは、忘れようとしても忘れようとしても忘れることはできません。「現実逃避」は、あくまでも一時的なものにとどまります。
 
 
 私たち人間はある意味で、唯一の現実なるもののうちに縛りつけられています。想像のうちで「この現実」とは異なる「別の現実」を思い描くことはいつでも可能ですが、思い描くことで「この現実」が消えてしまうわけではないからです。
 
 
 中世哲学の用語法を用いるならば、「知性のうちに in intellectu」存在することと、「もののうちに in re」存在することは異なります。これは当たり前といえば当たり前の事実ではありますが、それにも関わらず、実は気づかないうちに忘れられていることが極めて多いのではないだろうか。
 
 
 おそらく、もしもこの世に苦しみなるものが存在しないとすれば、人間は、いつまでも夢と現実の間をさまよい続けることでしょう。その時、現実とは自分にとって心地よいものの別名にすぎないことになり、こうして、人間はそれぞれの作り出したかりそめの現実のうちでまどろみ続けるに違いありません。それはいわば、フロイトの言う快感原則だけが支配する、揺籠の中の胎児たちの楽園です。
 
 
 
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 フィクションを際限なく消費しつづける現代の人間は、実はすでにいくぶんかは、培槽の中の脳のような人生を送りはじめているのではないか。現実の他者にコミットすることなく、ただ自分にとって心地よいフィクションに浸るという生き方のうちには、どこかグロテスクなところがあるというのは確かです。
 
 
 苦しみの存在はしかし、この夢遊状態の中でまどろむことを不可能にします。心が病み、体が病むとき、人間はもはや自分だけの世界にとどまり続けることはできません。人間はその時、自己の身体が存在し、他者たちが存在する「この現実」の方に戻ってこざるをえなくなります。
 
 
 現実なるものがその本質からして、快感原則が立ち行かなくなるところにしか現れてこないものであるとするならば、現実とは常に何らかの意味で「望まれざるもの」であるということにならざるをえないのではないだろうか。その意味では、成熟するということは、この「望まれざるもの」をあえて引き受けるという苦い選択のうちに示されると言えるのかもしれません(大人とは、現実とはその定義からして不快なものであるということを知っている人間のことである)。