イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

認識論的な悪の源泉

 
 トマス的自己観: わたしとは人間であり、その限りで、この世においてはわたしの身体から分離する事ができない。
 
 
 わたしを純粋意識として捉えるデカルト的自己観とは異なって(前回の記事参照)、この自己観によるならば、わたしが「この人間」であることは、わたしにとって本質的な規定であることになります。
 
 
 ふたたび、筆者自身に例を取るならば、この見方に従うと、筆者という「わたし」にとっては、わたしがphilo1985であるという事実の重みを消し去ることはできません。想像の上でならば「もしもわたしがAという人間なら」「もしBに生まれていたなら」といったように、事実とは異なる可能性を思い描くことは可能ですが、事実においてはAでもBでもなくphilo1985という人間であることの重みを否定することは不可能です。
 
 
 これは、ある意味では面白くも何ともない考え方です。この自己観は著しく「反フィクション論的」であり、哲学的な傾向のある人には、形而上学的想像力の行使に難癖をつけようとする「常識人」の言い分にすぎないように見えるかもしれません。
 
 
 しかし、筆者はこの点においては、「想像力Imaginatio」は罪の源泉になりうるという聖トマスの見解に従います。わたしが「この人間」であることをひとたび否認してしまうならば、後に残っているのは反–現実のディストピアでしかないのではないか。筆者としては、デカルト的自己観とトマス的自己観という二つの考え方のうち、後者の方の妥当性を主張しておくことにしたいと思います。
 
 
 
想像力 トマス デカルト 反フィクション 形而上学 常識人 純粋意識 パラレルワールド VR 反時代
 
 
 
 注意しておきたいのは、わたしとは純粋意識であるデカルト的自己観にも、一定の根拠がないわけではないという点です。というよりも、このような見方にこそ近代認識論哲学のすべてがかかっているといっても過言ではないので、本来、この自己観についてはより詳細な検討が必要なことは言うまでもありません。
 
 
 この点については、フィクションに関する今回の探求に一区切りをつけたのちに直ちに取り掛かる予定ですが、今回はとりあえず、「わたしとは純粋意識である」というテーゼへの疑義を申し立てるというところで満足しておくことにします。ハードな反フィクション論を検討するという目下の課題に取り組むにあたっては、それだけで大方の用は足りそうだからです。
 
 
 一方、トマス的自己観に立つならば、「あらゆるフィクションは悪である」というハードな反フィクション論の主張も、それに賛成するかしないかは別にするにせよ、もはや理解しがたいものではなくなってきます。すなわち、「想像力ハ罪ノ源泉ニナリウル」。パラレルワールドVR全盛のこの時代にあってはこうした見解の分はよくないかもしれませんが、ここでこうして純粋哲学の議論に踏みとどまっている限りは、それほど問題もないかと思われます(恐らく、哲学は本質的に密やかな反時代的考察たらざるをえないのであろう)。