イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

フィクションについての探求の終わりに

 
 今回の探求の終わりに、真理に関する先人の一見解を参照しておくことにします。
 
 
 アリストテレスによる真理の定義:
 あるものをあると言い、あらぬものをあらぬものと語るのが、真理である。
 
 
 あるものをあらぬものと見なし、あらぬものをあると語るのがフィクションであるとすれば、およそフィクションほどに真理から遠いものは存在しないことになるのではないか。その意味では、哲学という営みは、その本質からしていくぶんかは反フィクション論的であらざるをえないということになるのかもしれません。
 
 
 今回の探求の後半部では、私たちがたった一つだけ存在している「この現実」を生きているという根源的な事実に着目しました。かくして私たちは、ここでもまた存在の問いに直面しているということにならざるをえないようです。
 
 
 前回の探求においても、「力能の次元」に対して「存在の次元」が浮かび上がってくるという形で存在の問いに焦点が当てられるということになりましたが、筆者の哲学においては、「存在するとはいかなることか」という問いに比類ない重要性が与えられることは間違いなさそうに思われます。
 
 
 マルティン・ハイデッガーは、古代ギリシアに始まる哲学の歴史を「存在の思索」の歴史として捉えていましたが、このような見方にはやはり十分な根拠があるといえるのではないか。筆者自身の哲学史観はハイデッガーのそれとはだいぶ異なったものになりそうですが、いずれ、哲学史そのものの読み直しについてもこのブログにおいて行ってゆく必要があるのではないかという気がしています。
 
 
 
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 ともあれ、次回からは予定通り、「わたしとは何か」という問いに取り組み始めることにしたいと思います。このブログも、書き始めてからそろそろ四年になろうとしていますが、ようやく哲学の根本問題に正面から向き合う運びとなってきたようで、個人的な話で恐縮ではあるのですが、やはりそのことに対しては、自分自身としては感慨を禁じえません。
 
 
 今となってはもっと早くから本題に入っておけばよかったのではないかという気もしますが、筆者にとっては、今のこの時期がそれにふさわしいタイミングだったということなのかもしれません。自分自身の哲学の形が定まってゆくのはなんだか怖いような気もしますが、いずれにせよ死ぬ前に仕上げておくべきことではあると思うと、生きている今のうちに全力で取り組んでおくべきことなのではないかという気もします。
 
 
 ともあれ、今回も読んでくださってありがとうございました!できる限り余計なことは考えずに、引き続き哲学の探求にいそしむことにしたいと思います。コアな哲学フリーク以外にとっては何の興味も湧かない内容になってしまう恐れもなくはないですが、興味のある方は、お時間のある時にでも目を通していただければ幸いです。