命題:
わたしとは、他の誰でもない「この人間」である。
フィクションに関する前回の探求からの続きになりますが、上の命題に対してもう一つの命題を対置しておくことにします。
反対命題:
わたしとは、純粋意識である。
しばらく、こちらの反対命題について考察し続けてみることにしましょう。反対命題が指し示しているのは、デカルト以降の近代哲学が依拠し続けてきた、ある根源的事実に他なりません。ここで、その事実を簡潔に確認しておくことにします。
わたしには、さまざまなものの実在を疑うことができ、場合によってはこの人生のすべてが夢であるとか、いま見えている「この風景」も夢なのではないかと疑うことさえも可能ですが、そのわたしにも、ただ一つだけ決して疑うことのできない事実があります。それは、このようにしてすべてを疑っている時でも、疑っているわたし自身は何らかの意味で存在しているのでなければならないということです。
疑ったり、感じたり考えたりしている時点でわたしは存在してしまっているので、「そう思ってはいるけれど、実はわたしは存在していない」ということはありえません。その場合、すでに存在してしまっているわたしが「実は、俺ってワンチャン存在しないんじゃね?」と想像しているだけなので、いずれにせよ、わたしが存在しているというこの根源的な事実を打ち消すことはできません。
「われ思う、ゆえにわれあり。」あまりにも有名な、ルネ・デカルトによる不朽の哲学命題「コギト・エルゴ・スム」です。定番といえばあまりにも定番すぎるとも言える古典的真理ではありますが、やはり、クラシックにはクラシックとされるだけの深みがあります。
このコギト命題ですが、実は、「空中浮遊人間」という限りなくイルな思考実験によって同じ結論に辿りついていたイブン・シーナーという偉大な先人がいたことが哲学史家たちには広く知られています。ともあれ、この根源的事実がデカルトによって哲学の第一原理の地位に据えられて以来、哲学者たちは、実にさまざまな体系をこの原理の上に打ち立ててきました。
これがなければカント哲学もなければ、フッサール哲学もない。それどころか、スピノザもヘーゲルも出なかったであろうという大発見中の大発見がこの「コギト・エルゴ・スム」です。といっても、別に筆者が発見したことではないので筆者自身が威張ることではないのは言うまでもありませんが、紹介する身としては、やはりどこか徳川の印籠を振りかざす格さんのような気にさせられます。
今回の探求では、このコギト命題からの帰結と、この命題に対するある種の「悪しき理解」を問題にしてみたいと考えています。というのも、このコギトなるものは、そのまま放っておくと大いに悪さを働く可能性があるからですが、ともあれ、考察をさらに先に進めてみることにしましょう。