イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

超越論的-経験的二重体

 
 命題の再提示:
 わたしとは、他の誰でもない「この人間」である。
 
 
 これからこの命題を擁護してゆくにあたって、まずは次の点について考えてみることにします。
 
 
 人間存在の規定:
 人間とは、超越論的-経験的二重体である。
 
 
 ここでは、ミシェル・フーコーが『言葉と物』において提示した「Doublet empirico-transcendantal」という表現を、語順を改変しつつ借用しています。この規定は、人間という存在が抱え込んでいる根源的な二重性に、私たちの注意を向けさせます。
 
 
 人間はまず、「コギト・エルゴ・スム」において示されるような純粋意識です。この意識とは、ここから出発して世界についての知が可能となるような絶対的な支点=視点であり、このレヴェルにおいては「わたしは『この人間』ではない」というテーゼにも確かに、一定の根拠があるように見えます(超越論的意識としてのコギト)。
 
 
 しかし、人間は同時に、肉体や記憶、人格上の特性といった物を備えた特定の「この人間」でもある。わたしの意識は時空によって局限されたこの「この人間」の具体的実存のうちに埋め込まれており、私たちは、少なくともこの世においてはこの「埋め込み」から逃れることができません(経験的実在としての人間)。
 
 
 わたしという人間はまずもって、こうした超越論的-経験的二重体として存在していると言えるのではないだろうか。「わたしとは何か」という問題における哲学者の務めとは、「わたし」の持つこうした根源的二重性に対して、事柄にふさわしいしかたで驚嘆し、それを言葉によって分節化してゆくことにあるのではないかと、筆者は考えています。
 
 
 
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 非哲学的なものの見方は通常、純粋意識が持つある種の特権性に気づくことはありません。この見方は、「わたし」を過度に特別視しないという慎ましさを備えてはいますが、その際、コギトとしての人間が持っている比類ない存在論的特異性は見過ごされることになってしまいます。
 
 
 しかし、その一方で、哲学的なものの見方は往々にして、コギトの特権性に目がくらむあまり、自らを神のような存在であるかのように思い込むという過ちを犯しているのではないだろうか。この「過ち」は形而上学的に、あるいは神学的に見て極めて深い帰結を伴うものであり、今回の探求の目的は、この「過ち」の内実を解きほぐしつつ、哲学的思考における人間を、人間自身にふさわしい位置に据え直すことにあります。
 
 
 無知と傲慢とは、ひとが避けるべき二つの対照的な極であり、おそらくはそのどちらに落ち込むとしても愚かさの誹りを免れることはできませんが、知恵は、怠惰という別名を持っているあの無知なるものから身を引き離しつつ、傲慢という別種の過ちをも常にすれすれのところで回避し続けることによってしか到達されないものなのではないか。「わたしとは何か」という問いについても、「コギト・エルゴ・スム」をそれとして認めつつも、自己意識という鏡にあまり見惚れすぎないことが肝要であるように思われます。