イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

事実性の与えについて

 事実性の与えについて:
 事実性における「この人間であること」の与えは、超越論的な意識の与えに劣らず厳粛なものであるように思われる。
 
 
 考える「わたし」には、「わたしは実は『この人間』ではなく、むしろ『この人間』であると思い込まされているだけなのではないか」と疑い続けることは、常に可能です(悪霊的想定)。その上、このような想定がパラノイア的な、狂気にすら近いような途方もないものであるにしても、この想定が正しいものではないと絶対的な確実性をもって断言することは、原理的に言って不可能でもあります。
 
 
 しかし、それにも関わらず、事実においてはわたしは「この人間」であり続けてきたし、死ぬまでそうあり続けるであろうという確信に近いような感覚がわたしに与えられているということもまた、否定しがたいように思われます。バートランド・ラッセルの有名な「世界五分前仮説」をはじめとして、タイプの異なるさまざまな「悪霊的想定」を思い描くことはいつでも可能ですが、おそらくそうした想定のすべては、突き詰めれば哲学者の心中に浮かんだ幻に過ぎないのではないだろうか(哲学的議論の助けとして役立つことは、確かであるとしても)。
 
 
 コギトを絶対視しがちな傾向を根強く持っているデカルト以降の哲学的人間にとっては、端的な事実性というものを受け入れることは、純粋意識の誇りに反することかもしれません。しかし、事実性における「この人間であること」の与えは、超越論的な意識としての「わたし」の特権性を、少なくともある程度まで失墜させずにはおかないものであると言えるのではないか。
 
 
 
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 「この人間」への「失墜」:
 世界がそこから開けてくる絶対的な始まりとしての「わたし」は同時に、世界の中に生きる一人の人間として存在するという務めを負わされている。
 
 
ここで言い当てようとしている事態は、ハイデッガーが『存在と時間』において提示した被投性という概念にも深く関わっています(cf.「失墜」という表現については、古代におけるグノーシス思想にも似たような語彙や発想を見出すことができよう)。ここで注目しておきたいのは、わたしは、自分の意志とは関係なしにこの世界のうちに投げ込まれているにも関わらず、わたしという意識の超越論的な特権性は、ある意味ではそのまま残存し続けてもいるという点です。
 
 
世界とはわたしにとって「わたしの世界」であり、もう一歩踏み込むならば、わたしとは、世界そのものでもある。その意味においては、わたしが消滅する時には、世界もまた消滅すると言えるのではないか……。
 
 
わたしを神のように思いなし、わたしの意識に比類のない特権性を与えるこのような思考にも、根拠が全くないわけではありませんが、このように独我論的な傾向を持つ思考はやはり、「この人間であること」の与えの事実性の前に崩れ去らざるをえないのではないだろうか。次回の記事では、わたしの死という論点を取り上げつつ、もう少しこの論点を掘り下げてみることにします。