イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

認識論のうちに、非-認識論を

 
 コギトの存在について:
 コギトの存在は、認識のあらゆる力能から離れたところで捉えられなければならない。
 
 
 イブン・シーナーは、およそ身体の感覚なるものを全く持つことのない「空中浮遊人間」を想定していましたが、おそらくはそれをさらに突き詰めて、自己の身体のみならず、精神のあらゆる力能をも宙吊りにする必要があるのではないか。
 
 
 「わたしは存在する」は、知覚する、想像する、想起するといったあらゆる認識の能力には還元されず、かえってそれらの能力の行使の基底とはなるが、それ自身はいかなる能力でもないといった体のものです。哲学は、力能の根底に無底の根底として横たわっているこの「存在ノミ」の次元を発見しなければなりません。
 
 
 近代の哲学は認識を根拠づけようとするおのれ自身の関心のために、本質的に「諸能力の理論」へと向かう傾向を持っていました。カントにおいて、この傾向は一つの頂点へと達しましたが、彼の哲学はその根本において、コギトの諸能力の、あるいはコギトの力能の哲学であったと言うことができるかもしれません。
 
 
 しかし、力能へ向かおうとするこの動向のうちで、デカルトによって一瞬垣間見られたはずの「存在ノミ」の次元は常に忘却される傾向にあり続けたのではなかっただろうか。力能の次元には還元されえない存在の次元にあらためて目を向ける必要があるのではないかというのが、筆者がここでくり返し指摘しておきたい論点になります。
 
 
 
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 私事にはなってしまいますが、力能から存在へという論点は、筆者の哲学探求の中でこれまでもたびたび問題となってきました。今年に入ってからは、私たちは社会哲学の根底においてこのモチーフに出会いましたが、今回の探求では、認識論の根底においてこれと同じモチーフにたどり着いているといえます。
 
 
 われわれはいわば、認識論の根源に非-認識論を発見しなければなりません。カントが見出した超越論的統覚、すなわち、あらゆる思考に必然的に伴う「私は考える」はあくまでもコギトの「能力」であり、力能の次元にとどまっています。われわれは能力の根底に横たわっている無能に、力の根底に存在している「無力=弱さ」の次元に目を向ける必要があるのではないか。
 
 
 諸学問とそれに結びついた科学技術は、力能の次元に、無数の「〜できる」の方に関心を向けています。哲学の根本は「できる」ではなく「ある」に向き直りつつ、「できる」の無意識としての「存在ノミ」に対する忘却に抗い続けることにあるのではないかと筆者には思われます。