イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

この時代の病

 
 反出生主義の論理構造:
 1. 至高性の直観を持つわたしは、自分自身を純粋意識として思い描く。
 2. しかし、それゆえにわたしは、わたし自身が血と肉を備えた一人の「この人間」であることを受け入れることができない。
 
 
 「この人間」としてのわたしは、病み、苦しみ、悲痛なうめきを漏らすこともある惨めな存在です。わたしはまた、自分自身で生まれつきの容姿や性格や能力を選ぶこともできず、ただ、運命による「この人間」の与えを受け入れることしかできません。
 
 
 しかし、この時代の人間は、感謝と共にか諦めと共にかは別にするにしても、いずれにせよ受け入れることしかできないはずの「この人間」の与えを、おそらくは以前の時代にもまして拒絶しはじめています。フィクションやVRはそのための手段の一つになりえますが、そうしたものはあくまでも、根底的な仕方で深まりつつある現実への嫌悪の一つの表れに過ぎないのではないだろうか。
 
 
 私たちは、現実を憎んでいる。自己自身を憎み、世界を憎み、存在するということそのものを憎んでいる。
 
 
 私たちの時代は、死にたいと思っている人間には事欠くことがない。たぶん私たちは、怠惰と一体になった自分たちの絶望を、自分たち自身の賢さと取り違えるという過ちを犯しているのだろう。私たちは、生きることよりも死ぬことの側にあまりにも安易に同意を与えてしまったことの代価を、いずれ支払うことになるだろう。
 
 
 
 反出生主義 純粋意識 フィクション VR グノーシス ニヒリズム
 
 
 
 もちろん、現代のみならず、すでに言及した古代のグノーシス思想を始めとする実に多くの思想のうちにも、世界や生命、あるいは存在するということそのものに対する激烈な否定のモメントを見ることができるということは間違いありません。しかし、すでに少なくない数の先人たちも縷々指摘しているように、ニヒリズムと現代とは、ある極めて深い歴史的必然性によって固く結びつけられているのではないだろうか。
 
 
 筆者は今回の探求において、この時代の病の根源を、「『この人間であること』の拒否」という表現によって言い表すことができないかと模索してみました。わたしが「この人間であること」の拒否とは、普通の言葉づかいでいうならば、わたしがわたし自身であることの拒否ということになります。
 
 
 おそらく、わたしが他の誰でもないわたし自身であることを認めるとは、わたしが徹底的に惨めな存在であることを認めることです。人間は老い、病み、死ぬ。一切の現実否認をすることなしにそのことを認めた時、人間は自分自身が一個の惨めな人間に過ぎないことに、はたして耐えることができるだろうか。
 
 
 この問いには、一人一人の人間がそれぞれの答えを出すほかないことは確かですが、筆者としては、少なくとも自分自身にとっては聖書という本だけが納得のゆく答えを提示しているように見えたことをここに付け加えておくことにします。この世から見るならば極めて特殊な一意見であることは否定すべくもありませんが、この結論にたどり着くための梯子に他ならないのではないかというのが、現在の筆者が抱いている哲学観です。