イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

哲学と親密圏

 
 問題提起:
 哲学の営みはその本質からして、公共圏よりもむしろ親密圏の方に属するのではないか。
 
 
 哲学は決して欠くことのできない要素として、友を必要としています。それというのも、哲学の対話というのはどこかで、「わたしとあなたの間で語られる、秘密の打ち明け話」たらざるをえないからです。
 
 
 プラトンの対話篇を繙いていると、「そんなことを言っていると連中にとっちめられますよ、ソクラテス!」といった類の言葉にしばしば出会います。ソクラテス、そして彼の生き方を自分なりの方法で引き継いだプラトン自身もまた、自分たちが人生を賭けて探求していることが万人に受け入れられるものではないことを強く自覚しながら活動していたように思われます。
 
 
 ひとが哲学を始めるためには、さまざまな条件や出来事が必要です。たとえば、その人に衝撃を与えるような数々のよい本との出会いが重要であるのは言うまでもありませんが、やはり何よりも大切なのは、心を開いて語ることのできる友を見つけることなのではないだろうか。
 
 
 たった一人でも打ち解けて語ることのできる友がいるならば、ひとは、自分がしている問いかけがこの世で何の意味をも持たないわけではないことを知ることができる。無意味は意味となって、彼あるいは彼女は、世界について、存在について、自分たち自身の人生について共に語り始めることでしょう。
 
 
 
公共圏 親密圏 プラトン 対話篇 ソクラテス 無意味 ブログ
 
 
 哲学にとっては、風向きが決して言えないような時代がやって来ています。生産性の論理の圧迫がなかった時代などこれまでに存在しなかったことは言うまでもありませんが、相対的に言って、二十一世紀の哲学が置かれている状況が、二十世紀後半のそれよりも苦しいものになることは間違いないでしょう(「これから砂漠で生きてゆく世代は大変だ」と、前世紀のある哲学者は言っていた)。
 
 
 しかし、哲学の営みはもともと、この世の片隅で密やかに対話する友たちの間で語られるものでもあったのではないか。彼らは、これからも片隅で語り続けるでしょう。ひとを愛することや、神と運命について、また、世界の行く末や人類の未来といった、彼らには不釣り合いにも見えるほど壮大なあれこれのことについて、彼らはこの先も語り続けるに違いありません。
 
 
 この世の隅で考え続けているこのブログも、いかに漠然としたものであれ、哲学に関心を持っている人々のインターネット上のつながりがなかったとしたら、ここまで書き続けてゆくこともできなかったことでしょう。返す返す、読んでくださる方がいることにはただ感謝というほかありませんが、これからも細々と書きつないでゆきたいと思いますので、お時間のある時にでも目を通していただければ幸いです。