イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

バッコスの乙女たち

 
 問題提起:
 私たちは、私たち自身の友情と愛情に関して、あまりにも早く諦めすぎているのではないだろうか。
 
 
 人間関係の現実とは、互いに対する幻滅と倦怠の連続です。期待は裏切られ、初めの頃の純粋な喜びは、関係が長く続くにつれて、現実への忍耐に場所を譲ってゆくことにならざるをえません。
 
 
 しかし、私たち自身の意志がどうであるかには関わらず、私たちには、他者との完全な一致を望むという狂おしい望みを捨て去ることはできません。この望みを諦めるとすれば、私たちはどこかの時点で、何らかの形のニヒリズム(これは絶望の形を取ることもあるが、むしろ漠然とした倦怠感の形を取るケースの方が多い)に落ち込んでゆくことになるになるでしょう。
 
 
 その一方で、他者と関わることへの諦めが、私たちの生きているこの時代を特徴づけています。
 
 
 スターやアイドル、あるいはフィクションのキャラクターといった種々の存在者を偶像化してゆくことは、少なくともある程度までは、現実の人間関係の代替物にはなりえます。また、情報テクノロジーの発達は、趣味の充実と幅の広い知的探求、さらにはネット上に構築される疑似-共同体への参与を可能にしてはいますが、私たち自身の抱えている生への倦怠と嫌悪の方はといえば、ますます増大し続けていると言わざるをえないのではないだろうか。
 
 
 
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 自己と他者との完全な一致、あるいは、一点の曇りもない〈同〉の実現という理念は、人間には荷が重すぎるのかもしれません。それでも、人間には、この理念を無視して生きることは決してできません。
 
 
 今のこの国の少女たちは、まるでバッコスの巫女たちの現代における再来ででもあるかのように、「推しが尊い」の叫びを連呼しつづけています。この叫びは、他者の不在と現実への倦怠を、偶像化された他者への集団的かつ熱狂的なコミットメントによって相殺するという解決を目指すものですが、このような解決策の追求がもしも現実の否認にまで至ってしまうことがあるとすれば、薬であったはずものが、かえって病と絶望をもたらすという結果を招いてしまうこともあるかもしれません。
 
 
 もちろん、もはや熱狂に駆られるということをしなくなった私たち大人の方は、ただ多少なりとも巧みに現実と妥協してゆくことを習い覚えたというだけなので、彼女たちと比べてそれほど知恵があるというわけでもありません。バクティ的なオルジーという形を取っているにせよ、〈他者〉への欲望に対して譲歩することを潔しとしないという意味では、彼女たちの方が私たちよりも偽りが少ないのではないかという見方もできなくはなさそうです。