ヒューマニズムの「裏面」:
人間であることは、その本質において困難な課題であると言わざるをえない。
〈他者〉への欲望は人間にとって、非常に厄介な重荷にもなりえます。そもそも、喜びと苦しみはいつでも紙一重のところにあるものなので、人間存在が現実の他者たちと関わってゆく以上、その中で苦しむということは逃れがたい運命であると言えるのかもしれません。
現代の人間が失いつつあるのはこの、人間であることに固有の苦しみを耐え抜く力です。
フィクションやヴァーチャル・リアリティは快感原則に対して極めて適合的に作られているので、人間に、不快なものと向き合うように迫ったりはしません。たとえ、これらのもののうちで苦しみが描かれ、語られることがあるとしても、その苦しみはすでに抽象され、精神化することによって克服されたものなので、現実の苦しみが、その耐えがたさの影を留めているということはないからです。
人生をこれから生きる若者たちが本当の意味で必要としていることとはおそらく、誰かから「あなたは、あなた自身の苦しみを耐え抜きなさい」と言ってもらうことなのではないか。
しかし、大人たちのうちの誰が、疎まれるだけの役目を引き受けたりするでしょうか。そのようなことをあえて言う大人は少なくとも、若者たちから侮蔑と冷笑のまなざしで見つめ返されることを覚悟しなければならないでしょう。
若者たちは真面目になることよりも、ふざけ合ったり、斜に構えて笑うことの方を好みます。快感原則の外に出ないでいることは心地がよいし、何よりもひとたび真面目になるとすれば、不真面目であることの快楽に浸っているまわりの友人たちから孤立してしまうことは避けがたいからです。
その一方で、人間は親しく打ち解けて笑いあうことと同じくらいに、孤独に悩むことをも必要としています。
本物の友情はおそらく、孤独を知っている人間同士の間にしか成立しません。他者からの絶対的な分離を体験したことがなければ、他者に本当の意味で近づくことは不可能です。
しかし、私たち大人はといえば、どうだろうか。真っ当な仕方で悩み、苦しみ、孤独をくぐり抜ける代わりに、妥協し、社交し、ほどほどのところで満足するという卑小さのうちに安住してはいまいか。必要な時には徹底的に孤独であることを引き受ける代わりに、適度な自由がもたらす快楽の方に甘んじ続けているのではなかろうか。
ヒューマニズムという言葉は本来、お人好しの人道主義ではなく、人間であれという要求の厳格さと切り離すことのできないものであったように思われます。かく言う筆者自身、この要求の峻厳さに日々向き合っているとはとても言えないような生活を送っていることは否定すべくもありませんが、自戒の意味を込めて、哲学の探求だけはこれからも細々と続けてゆきたいところです。