イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

友と、存在の論理

 
 以上の議論を踏まえた上で、最初に提起した「友情とは何か」という問いに答えてみることにしましょう。
 
 
 友情の本質:
 友情とは、互いの存在を受け入れ合い、分かち合うことである。
 
 
 親密圏とは力能の論理ではなく、存在の論理が働いている圏域のことです。場合によっては、家族よりもはるかに濃密な親密圏を作り出すことになる友情は、当然のことながら、人間同士の間に存在の論理を通して結ばれる関係であるということになるでしょう。
 
 
 私たちはここで、古代の友情論と対決する必要に迫られることになります。というのも、古代の哲学者たちにとって、友情とはあくまでも高貴で有能な人間同士の間に結ばれる、自由で卓越した人間関係を意味していたからです。
 
 
 友情というものにこのような側面があることは、否定しがたい事実です。親しい友とは、「普通には話したり共有したりできないことを話し、共有することのできる人」のことです。どれほどささやかな友情であっても、何らかの慎ましい「卓越性」を伴わずにはいないというのは、おそらくは友情に関する普遍的な事実です。
 
 
 しかし、卓越性のみによって保たれる友情というのは、乗り越えることのできない根本的な限界を抱えていると言わざるをえないのではないか。友情が友情であり続けるためには、友情は、人間が力能や卓越性とは別の次元を受け入れることを求めずにはおかないのではないだろうか。
 
 
 
 友情 親密圏 哲学 芸術
 
 
 
 この世は、何かができるということ、何かにおいて優れていることを重視し、評価します。政治や経済活動をはじめとする人間のあらゆる活動には、隅々まで力能の原理が浸透していますし、そのことは、哲学や芸術といった領域においてすら例外ではありません。
 
 
 しかし、人間は、力能の論理とは別の論理をも必要としています。この論理は、誰かが他の誰でもないその人として存在しているというただそのことだけによって、その人の存在をそのまま受け入れることを求めるものであって、愛という別名を持つこの論理が働くことをやめてしまったら、この世は非常に荒涼とした、薄ら寒い場所へと姿を変えてしまうことでしょう。
 
 
 ひるがえってみると、友情とは何らかの意味における卓越性が育まれる関係であると同時に、まず何よりも、本当の意味で愛と呼ばれうるものが互いの間を流れてゆくような関係であるべきなのではないだろうか。私たちは、このような問題提起が私たちをどのような帰結へと導いてゆくべきものであるのか、これから少し時間をかけて探ってみることにしましょう。