イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

いざ、最悪の方へ

 
 友情に関する「実践的勧告」:
 友との間に、あるいは、愛する人との間に亀裂や分断が生じた時には、その亀裂や分断を、何か思いがけないものであるかのように考えない方が無難である。
 
 
 もしも、すべての人が罪と弱さを抱えているという見解が正しいものであるとすれば、その当然の帰結として、罪や弱さを持たない人間を探すというナンセンスな試みに関しては、成功の望みを一切持たない方が賢いということになります。
 
 
 そして、罪と弱さはその定義からして耐えがたいものなので(前回の記事を参照)、仮に、ある親しい相手との衝突が耐えがたいものであるからといって、すぐに別の相手を見つけようとしたりはしない方がよさそうです。おそらくは、その別の相手なる人もまた、わたしやあの人とは別の欠点を抱えており、人から人へとみだりに渡り歩くとしても、人間の欠点に関する一大目録を充実させてゆくことにしかならない見込みが高いからです。
 
 
 愛の体験においても、欠点を持たないのは、わたしを愛することがなかった「あの人」だけです。その「あの人」にしても、もしも何らかの事情によって運命が狂い、わたしがその人と結ばれることがあるとすれば、わたしが彼あるいは彼女の中に見出すものは、喜びではなく倦怠であり、美ではなく幻滅であるに違いありません。
 
 
 
友情 サミュエル・ベケット 罪 弁証法 対称性
 
 

 人間が人間に関わってゆくということのうちには、サミュエル・ベケットの表現をここで借りるとするなら、「いざ、最悪の方へ Worstward Ho」というモメントが必然的に含まれていることは否定できません。従って、他者に近づいてゆくならば、おそらくは、どこかの時点で深い幻滅に遭遇することをあらかじめ覚悟しておくべきです。
 
 
 そして、繰り返しにはなってしまいますが、この幻滅はその言葉の定義からして、「あなたの弱さが、あなたの罪が愛おしい」と言えるようなものではありません。むしろ、「こんなことならば、あなたとは出会わなければよかった」と言わざるをえないような幻滅、あらゆる弁証法の試みに逆らう止揚不可能な幻滅をこそ、ひとは予期しておくべきであるとさえ言えるかもしれません。
 
 
 注意しておくべきは、わたしが友と、あるいは愛する人のうちに幻滅すべき何ものかを見出すとすれば、対称性の法則によって、相手もまた自分のうちにそれと同じ程度の幻滅を見出すことになるであろう、ということです。人間関係には程度の差はあるにせよ、乾いた絶望以外の結末はありえないとあらかじめ予想しておくことは、私たちの「幸せな日々」に何らかの慰めを添えてはくれるのではないかと思われます(「われらに罪を犯すものを赦すごとく、われらの罪をも赦したまえ」)。