イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

他者の他者性、光と闇

 問い:
 汝は存在を望むか、それとも無を望むか?
 
 
 生の問題はつまるところ、この問いのうちに集約されるのではないだろうか。少なくとも筆者には、哲学という営みは、この問いに正面から向き合う必然性を抱えているように思われます。
 
 
 目下の探求に関して言えば、私たちは、隣人たちとの関わりを絶つか、それとも、互いに対する幻滅を乗り越えて関わり続けるのかを問われています。この問いにおいても、根底で問われているのは同じ一つの「存在か無か」であり、この二者択一こそ、私たち自身の行く先を決定する分水嶺の中の分水嶺に他なりません。
 
 
 格率:
 汝の耐えがたい隣人を、友として受け入れよ。
 
 
 無に対してあまりにも容易に同意を与えていることが、私たち自身の責められるべき咎です。無の観想がもたらす幻影の快楽に代えて存在するという最悪の方を選び取ろうとする人は、ほとんど誰もいません。
 
 
 他者に向かうということのうちには、息切れのするような労苦があります。エマニュエル・レヴィナスのような哲学者は、この労苦を哲学の言葉にまでもたらすために人生の大部分を費やしましたが、この労苦に「意味」という名を与えたことは、彼がこの呼吸困難と没落について、どれほど根底的に考え抜いたかを示しています。
 
 
 
 哲学 存在 無 エマニュエル・レヴィナス 他者 外部 認識 擬ディオニシオス・アレオパギテース 神性 光 闇
 
 
 
 レヴィナスは他者の領域を存在の「外部」として、あらゆる光を逃れる「存在するとは別の仕方で」として描こうとしました。
 
 
 このことは、他者がわたしの認識や志向性には還元されえないことを示したという点では、非常に大きな意味のあることでした。しかし、存在するという言葉の射程は、本当は、認識主体の認識や志向性をはるかに越えて広がっているのではないだろうか。
 
 
 擬ディオニシオス・アレオパギテースは神性の深みを、光ではなく闇という言葉を用いて表現しようとしましたが、その試みは、他者の他者性を「存在するとは別の仕方で」という言葉で言い表そうとするレヴィナスの思想的な営為と重なり合っています。
 
 
 しかし、光を超えるものは、闇という言葉の逆説的使用以外の仕方で言い表すこともできるのではないか。今回の探求もそろそろ終わりに近づいていますが、私たちは、最後にこの論点について少し考えておくことにしましょう。