イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

還元不可能なものを、見つめ続けること

 
 他者の存在:
 他者であるあなたの意識には、原理的に言って、わたしは決して到達できない。
 
 
 哲学的に考える気質を持った人にとっては、上の事実は、ある意味では当たり前のものにすぎないかもしれません。しかし、気づかれないうちに忘れられてゆく傾向を持つこの事実は、折に触れて繰り返し思い起こされるべきものなのではないだろうか(哲学の務めの一つとは、根源的な事実に対して、それにふさわしい仕方で驚くことである)。
 
 
 他者は、認識主体であるわたしが知らないところで、密かに苦しんでいます。わたしは、他者であるあなたが苦しむまさにその場所において、あなたの感じている苦しみに気づくことがありません。
 
 
 完全な〈同〉を実現するという友情の理念は、この観点からすると、そもそもの最初から果てしのない彷徨を運命づけられているといえます。わたしがあなたのことを理解していると信じている時、わたしがあなたの苦しみについて実は無知であるというわけではないことを、いかにして確かめることができるのだろうか。
 
 
 〈他〉は〈同〉に還元されることがありません。そのことによって、〈同〉の運動それ自体の生命が失われることはありませんが(われわれは語り、愛し続けるであろう)、それでも〈他〉の次元は、還元不可能なものとしていつまでも留まり続けます。それは、弁証法によって回収されることのない残余であり、「もう一人の自己」としての措定を静かに拒否する他者の他者性であり、友や伴侶という外見を越えて苦しみのうめきを漏らし続ける異邦人に他なりません。
 
 
 
他者 哲学 友情 無知の知 ニーチェ
 
 
 
 他者の他者性は、弱さというモメントを通してわたしに告げられます。
 
 
 理解するという力能を持つわたしは、その力能に自信を持つあまりに、他者の苦しみのうめきを聞き逃し続けます。わたしは、聞き取ろうと耳を澄ませるかわりに忠告をし、「知ろう」と意志するかわりに「知っている」と自負します。隣人との関わりにおいて何よりも必要なのは、(それが心理学的であれ、精神病理学的であれ、あるいは人間学的なものであれ)何らかの「知」ではなく、内面的な確信にまで至り、日々の対話の中に息づいた「無知の知」の方なのではないでしょうか。
 
 
 しかし、他者の意識に到達に到達することが原理的に言って不可能であるからといって、わたしはおそらく、到達するという理念そのものを諦めるべきでもありません。たとえ、あなたが本当の意味でわたしの友であり伴侶であるかを知ることはできないとしても(友や伴侶が、異邦人でなくなるということは有り得ないであろう)、友あるいは伴侶であろうとする試みそのものまでを放棄することはできません(友であろうとする意志が消滅した時には、わたしとあなたの間にはいかなる愛も生まれ得ないであろう)。
 
 
 異邦人としての隣人は、密かな苦しみのうめきを発し続けています。現代の人間は、高貴であろうとし続けた古代人たちに対して多くの点において劣っていますが、もしも私たちが彼らよりも優れたところを持つことがあるとすれば、それは自己と他者のうちにある弱さに真摯なまなざしを注ぎ続けることによって到達されるのではないかと思われます(この点については、ニーチェという不幸な先達の言葉に耳を傾けてはならない)。